源さんが行く66
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政六年の記録・第五回です。
寛政六年(1794年)の記録・其の伍
松前藩でも、南部藩に真似て私大(わたくしだい)の祝い*1が行われていたが、この頃から行われなくなった。
ところで、神亀二年(725年)冬至の祝いを催してから、寛平二年(890年)閏(うるう)十月の小の月(二十九日)を大の月(三十日)にして一日を冬至に充(あ)てた。
しかし、冬至から冬至までは三百六十六日あり、これを天度の左旋といい二十四節気*3を配した。
一ヶ月には大の月と小の月があって、一年の日数が三百五十四日となり、十二日が不足になる。そのため、おおよそ三十二か月に一閏(いちうるう)を置き、節気が晦日であれば後の月を閏とし、中気*4が一日であれば前の月を閏として、一年に十二日分の不足を補った。
ところが、ロシアでは一、三、五、七、八、十、十二月の七ヶ月をひと月三十一日とし、四、六、九、十一月の四ヶ月が三十日と数え、二月のひと月を二十八日としている。
なるほどと思う。
大黒屋光大夫を送り届けて根室に着船した日を、彼らは十月九日と記すが、その日は我が国では九月三日である。昨非今是*5はあえて言うまい。四年に一度の閏年を置くそうだ。
そうなると…歳時の混乱が起こりそうだ。
農業や養蚕の季節が暦とずれ、月の満ち欠け、潮の干満とも合わず、あらゆる職業に障りが出そうだ。現在(旧暦)では満月にハマグリが満ち、闇夜には魚が少なくなる。物事に晦朔*6があり、社日*7には燕が去来する。
春、雁が北に向かうのは四時*8を知っているからであり、
蓮や桐などの植物も冬には休眠し、自然の変化、暑さ寒さに応じている。
宮中行事でも、寛平元年(889年)に四方拝*9が始まり鶴亀などの献饌*10を行った。
玄猪*11には亥の子餅を大坂の能勢那門大夫から奏り。
三河万歳が毎年江戸城に参入する習わしや南部藩の祖にまつわる私大の祝いも旧暦の暦により受け継がれてきたものである。
蛇沼宗左衛門の餻餅(こなもち)と相前亦四郎の亀のタタキ(料理)は、いずれも故実の良きエピソードとして今も残る。
以上、寛政六年の記録でした。
もう最後の方は、何の話かわからなくなって打ち込んでいました。
要は今の暦と旧暦の違いなんでしょうけど、正直こんがらがっていました。
改めて源さんがかなり博学があるってことでした。
次回からは寛政七年の記録に入ります。
へつづく
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*1:旧暦で十二月が小の月(29日)の場合に年末を一日遅らせて元旦を大晦日とし、一月二日を元旦として祝う風習。その由来は南部家先祖のある史実による
*2:さくたんといじ=陰暦十一月一日が冬至に当たる日。ほぼ十九年に一度のことで、これを吉日として、公卿は賀表を奉り、天皇は紫宸殿に出御して祝った。これを朔旦冬至の旬という
*3:十二の節気と十二の中気の総称。冬至点は十一月と固定し、各月に中気を固定するという原則を決めた
*5:さくひこんぜ=陶淵明の「帰去来辞」から。境遇が一変して、昨日非と思ったことが今日は是と思うようになること
*7:しゃにち=春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日。土の神を祭って春は五穀豊穣を祈り、秋は収穫のお礼参りをする
*8:しじ=季節
*9:元旦に行われる宮廷行事
*10:けんせん=神仏に物を備えること
*11:げんちょ=陰暦十月上の亥の日の亥の刻に亥の子餅を食べる行事。万病をのぞくまじない