源さんが行く63
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政六年の記録つづきです。
寛政六年(1794年)の記録・其の弐
「紅毛(こうもう)雑記」、「紅毛新話」が大畑に伝えられた。
この本に世界七不思議が書かれている。
長さ八十四丈(252㍍)、広さ三十一丈(93㍍)、船底から帆柱の上まで八十五丈(245㍍)。
船内には兵士の陣地や工匠たちの部屋、荘厳な遊戯場、浴室、庭園もあるという。泉水には魚が泳ぎ、風車のウスで粉を挽き食糧にする。
船の側面は鉄で覆いヘサキには望楼を建て重さ三百斤(180㌔)の石を撃つ大砲をすえつけ、長さ三丈六尺(10㍍強)の矢を飛ばす。
石弓は六十丈(180㍍)まで飛ぶというふうに、あらゆる物を備え、隋の煬帝(ようだい)が汴水*1に浮かべていた龍船もこれに及ばないという。
第二は、大英帝国のロンドン橋。三百六十余間(648㍍)の石橋である。
第三は、霊鷲山(ぎじゃくっせん)を登ること三十六町(約4㌔)、道を十二里(48㌔)進むと、千間(1.8㌔)四方の石の堂、ギザのピラミッドがある。
第四は、爾馬尼*2にアラビアの石を用いて四十四丈(132㍍)の塔を建て、山の頂から石の橋を渡して宮殿や楼閣を築いた(?)。
第五は、アナトリア*3からトルコにかけて海を隔て、石橋をかけ渡した。(?)
この大像は海中の二つの台座の上に足を開いて立ち、大きな船はこの像の股の下を艀(はしけ)で通る。
像は左手に燭台を持ち、足の内部が螺旋階段になっており、ここを登って灯りをともす。
右手には須太府と呼ばれる、笏(しゃく)のような武器を持つ。
像の体内には大きな石を納めて錘(おもり)としている。
この石、両手をもっても抱えきれないほど大きいものである。
人夫千人がかりで十二年経て完成したものだという。
第七は、アマゾネ(アルテミス)がエフェソス(現在のトルコ)を攻め落とした時、その地に建てた高さ四十四丈(132㍍)、幅二十一丈(63㍍)のアルテミス神殿。
その内側に白い石柱百五十本。高さ七丈(21㍍)の像がある。
四つ門、白い石橋、正門前に瓏石の神像。
二百二年かかって完成したものである。
しかし、これらの石橋や大きな像は、清の康煕帝の時代(1661~1722)、風や波地震などの大災害により完全に破壊され原形をとどめていない。
このほかに、アレキサンダー大王がアフリカ諸国を侵攻したときに建設したアレクサンドリアの大灯台。
また、アレキサンダー大王はペルシャ帝国を攻めるため黒海の港ダーダネルス海峡に船を並べてその上に板を張り土を盛って、一千余歩の長い橋をかけ二百三十万の軍勢で襲来し、ペルシャに完勝したことをケンペルの「鎖国論」には記される。
へつづく
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