源さんが行く50
下北半島食べる通信「大畑の海峡サーモン」(2016夏 バックナンバー)【電子書籍】[ 下北半島食べる通信編集部 ] 価格:500円 |
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政四年の記録の続きです。
寛政四年(1792年)の記録・その弐
大畑湊村出身の長川仲右衛門は日和を見る達人で、また胆力に優れた船乗りであった。
去年(寛政三年)、幕府御用船の御船手*1の向井将監(しょうげん)組に召し出された。
東回り廻船ルート確立のために、千二百石の朱塗りの幕船・政徳丸を預かり洋上改修が完了して、今年初めて湊に入船した。
乗組員として、水主(かこ)同心組頭格の長川仲右衛門、添役の露木元右衛門、水主の岡本清左衛門と三浦文八が採用された。
■蝦夷地のマス漁は塩漬けだけだったが、絞りかすや俵物用に製造することになり、これに反対して止めさせようと、江指(江差)の人々が騒ぎ出し強訴に及び、松前の立石野*2にまで押しかけた。
■肥前(熊本県)の温泉(うんぜん=雲仙)岳が噴火、有明海に土石流が押し出された。
そのため、島原海にいくつもの新しい小島ができた。
元旦に船形の雲が現れ雲仙の頂をすっぽり包んだ時、人々はのんきにその光景を謳歌していたのだった。
孫次郎間の宇賀神社で弁天祭がとり行われた。
三月三日とするところではあるが、船の出入りの多い六月に改めた。
厨子(ずし)に入った塑造(そぞう)は、文化二年(1802年)に伝来したものである。
①印鑰*3、②管帯、③筆硯、④金財、⑤稲籾*4、⑥計升*5、⑦飯櫃*6、⑧衣裳、⑨蚕艱、⑩酒泉、⑪愛敬、⑫生命、⑬従者、⑭牛馬、⑮船車の十五童子がお供をしている。
弁天様は、「弁財天」とも表記する。これが祀られていた孫次郎間の浜辺の宇賀神社は荒波に侵食されて現在はなく、この弁財天は後に完成された(1811年)「豊漁稲荷神社」の境内に残る。
この豊漁稲荷神社は、江戸時代は「清水観世音」と呼ばれたが、明治の神仏分離令によって仏像が取り除かれた歴史を持つ。
(原始謾筆風土年表・意訳注釈より)
以上が、寛政四年に世間や大畑でおきた、いろいろな記録でした。
そして次回より、第三集のサブタイトルにもなっていますラクスマンの来航について詳しくやっていきたいと思います。
へつづく
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