源さんが行く110
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
今回は前回の予告通り、幕府の東蝦夷地直轄の背景を原始謾筆風土年表・資料編から紹介して、第七集のまとめにしたいと思います。
寛政十一年(1799)の記録・東蝦夷地が幕府直轄地(上知)と決定・其の八
十八世紀後半になると、北からのロシアの接近が幕府の関心事となってきた。
そのため、クナシリ・メナシ事件(1789)を契機に、蝦夷地を松前藩に任せておけないという論調が高まり、幕府は寛政十一年、蝦夷地を直轄地にすることにした。
これはアイヌ民族にとってあらたな受難の始まりだった。
幕府は、請負場所制度がアイヌの疲弊を招いており、このままではロシアにアイヌを奪われかねないという危機意識を強く持つようになっていく。
そこで、アイヌに対する「介抱」「撫育」(ぶいく)こそ緊急な課題だとして場所請負制度をやめ、「直捌」(じかさばき)を採用するなど、雇用面や交易上の不正を正そうという試みが一時的になされた。
しかし、結局は運上屋組織に依存した行政支配に終わったため、場所請負制度は実際にはいっそう拡大強化される結果になった。
また、「介抱」と言っても礼儀や年中行事などの機会を利用して物(米、酒、煙草など)を施す温情的救恤*1にとどまったため、アイヌの生活基盤の安定化には結びつかなかった。
こうして商人資本によるコタンの破壊はますます進行していった。
アイヌにとって最も脅威となったのは、「帰俗」(きぞく)という名の幕府による同化政策の強制だった。
元来、蝦夷地は日本地の外側にある異域として編成されていたが、外圧に対応して取られたこの蝦夷地直轄策は、いわば蝦夷地の内国化を意味していた。
したがって、そこに住む民も「蝦夷」という化外*2の民であってはならないとして「日本人並」化が企てられた。
この傾向は、特に幕末期に顕著にあらわれ、「土人」呼称の採用、日本人名への改称、そして羽織や上下の着用、月代、髷、髭剃りなど風俗を改めることが強要された。
しかし、こうした改俗に自発的に応じる者はまれで、大半は強い拒否反応を示し、一時的に従ってもすぐ元に戻った。
一方、幕府はアイヌの風俗を「被髪左衽」(ひはつさじん)の未開風俗ととらえ、日本風俗に変えてやるのが文明への教導だと固く信じていた。
こうした自民族優越意識にもとづく異民族文化への無理解はアイヌの抵抗にあっても改められることなく、近代日本の植民地支配において再び同じ愚を繰り返すことになる。
【原始謾筆風土年表・資料編/「アイヌと日本人」菊池勇夫】
…ということなそうです。
全く古代からエミシ・エゾに対する政策は変わっていません。
何処までも乗っ取りです。
さて次回からは第八集に入り、その蝦夷地直轄が源さんのいる大畑にどんな影響を与えたかを記録から紹介していきます。
つづく
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