源さんが行く55
下北半島食べる通信「大畑の海峡サーモン」(2016夏 バックナンバー)【電子書籍】[ 下北半島食べる通信編集部 ] 価格:500円 |
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
ラクスマンの来航の別記録のつづきです。
ラクスマンの来航1
寛政二年(1790)にアメリカの船が紀州藩に寄港し、翌三年にはイギリス船が紀州の熊野に来るなど、西南地方の海岸に頻繁に外国船が出没する報(しらせ)に接した松平定信は、なるべく穏便にそれらの外国船を抑留*1するように命じた。
ところが、翌年の寛政四年九月三日、今度は北方の根室に突然一艘のロシア船が入港した。その船には、ロシアの陸軍中尉アダム・ラクスマンがエカテリーナ女帝の使節として乗っており、松前藩に対し、漂流日本人を江戸に送致するために来航した旨を伝えた。
ロシアはすでに安永七年(1778)、日本に使いを送って交易を開こうとして松前藩に拒否された例があるので、今度はラクスマンを公式の使節に任じ、彼に漂流民の大黒屋光太夫らを送らせて、それを江戸で直接幕府に引き渡し、あわせて国書と献上物を提出して通商のきっかけをつかもうとした。
ラクスマンは本年中にぜひ出府(幕府との会見)したいと述べ、松前藩に止められると、それならば来年四、五月の頃まで待ち、その間返事がなければ、必ず江戸に直行するという決意を示した。
松前藩も今度は安永の時(1779~80) のように軽くあしらって帰すわけにもいかず、その処置について幕府の指令を仰いだ。
ロシアがそれほどまでに日本との通商に執着したのは、北太平洋の開発と密接な関係があった。
北太平洋開発の促進が、単に領土拡張だけを目的としたのではなくベーリング海をさしはさむ広大な海域における毛皮獣狩猟業の巨大な利益にひかれたためであったことは知られている。
その場合、一切の必要物資を遠いヨーロッパから運ぶことは大変なことであり、ロシアの競争者、イギリスもその点では同じ悩みを持っていた。
(原始謾筆風土年表・意訳資料/中央公論社:日本の歴史より)
へつづく
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*1:よくりゅう=留めおくこと