こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く128

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

蝦夷地探検家・最上徳内のはなしの最終話になります。

話の最後は、最上徳内妻・ふでさんが九回の蝦夷地行きを整理したものを

意訳されている佐藤ミドリ先生が資料編のなかで年表にまとめられているので、そちらを紹介したいと思います。

 

最上徳内のはなし5

天明五~六年(1785~6)31歳

幕臣の青島俊蔵の従者として蝦夷地、エトロフまで行きロシア人イジュヨらと会見。(第一回目)

同 七年 (1787)33歳

ひとり江戸から松前へ向かうが、松前藩に入国を拒否されて野辺地で次の機会を待つ。(第二回目)

翌年、島谷ふでと結婚。徳内の祖父と島谷家祖父が兄弟と分かり、徳内は島谷別家の後嗣(あとつぎ)となる。

寛政元年(1789) 35歳

 この年五月クナシリ・メナシ事件が起こり、七月青島俊蔵と共に調査のため蝦夷地へ。(第三回目)

同 二年(1790)36歳

青島俊蔵の報告に幕府が疑いを持ち、徳内も捕えられ入牢

青島は獄死。徳内は師の本多利明の助言により保釈される

同 三年(1791)37歳

幕臣の和田兵太夫のお供をしてエトロフ、クナシリに向かう。(第四回目)

同 四年(1792)38歳

幕府からカラフト見分を命じられ四月からカラフトへ。(第五回目)

同 十年(1798)44歳

蝦夷地巡察を命じられ、一か月遅れで幕臣近藤重蔵を追いかけ、七月クナシリで追いつく。この後エトロフに渡り「大日本恵登呂府、寛政十年七月」、近藤重蔵最上徳内など十五人記名の標柱を立てる(第六回目)

同十一年(1799)45歳

蝦夷地開発の一員に命じられ道路掛となり、二月十六日先発隊として江戸を出発。

三月中、大畑で造船、諸職人、食料など調達。四月松前到着。(第七回目)

五月工事開始。六月工事視察の松平忠明と意見が衝突し「取放し」(免職)を申し渡され、十月江戸帰着。

文化二年(1805)51歳

幕府目付の遠山金四郎に抜擢され、蝦夷地巡見随員となる。

遠山に先発して松前に渡る。蝦夷地にて越年。(第八回目)

同 三年(1806)52歳

九月、ロシア船によるカラフト襲撃事件が起こる。

翌年五月、徳内は宗谷へ。

同 四年(1807)53歳

四月「箱館奉行支配調役(しらべやく)」を仰せつかり、禄高百俵、七人扶持(ふち)の侍となる

この年、ロシア船のエトロフ襲撃事件が起こる。

六月、徳内は野辺地にいて下北方面からエトロフ、カラフトの情報を集め、逐次江戸に報告。六月松前到着。七月斜里詰めの津軽勤番兵百人の監督となり「支配調役」に任ぜられる(第九回目)

同 五年(1808)54歳

二月カラフト詰め。四月カラフトのクシュンコタン(大舶)着。

会津兵六百人の観察となる。この時、カラフト探検に出かけ、途中で間宮林蔵と出会っている。

文政九年(1826)72歳

シーボルト(31歳)と三度目の会見。 

シーボルトの徳内の評は「日本北方に関する稀なる薀蓄(うんちく)深き学者」。

この時に徳内が渡した地図がシーボルト事件に発展。

天保七年(1836)82歳

江戸浅草で病没。

島谷良吉著『最上徳内』より

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以上最上徳内のはなしでした。

波乱万丈に富んだ一生でしたね。

まさに人生に悔いなしだったと思います。

 

さて次回からはいつもの原始謾筆風土年表に戻りまして、寛政十二年の源さんの記録に入ってまいります。

 

つづく

 

 

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