源さんが行く60
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政五年の記録・ラクスマンの話の続きになります。
寛政五年(1793年)の記録・其の四
松前に出向いていた方々は、その後、三厩に渡り、そこから(大畑にも)やってきた。
幕府の御目付の石川将監忠房様一行の二十三人は菊地新右衛門の屋敷に宿をとり、西丸御目付の村上大學義礼様一行の二十一人は菊地与左衛門の屋敷に宿をとった。
御徒目付の松田十右衛門と岩瀬直右衛門、御普請役の蓮見伴七郎、小人目付の草田川伝治郎、寺沢治部左衛門、太田彦兵衛など総勢六十二人。南部藩監察の毛馬内荘助ら二十二人、勘定鎮台の大巻勇助ら十八人。代官の立花万右衛門と野辺友右衛門ら十五人、本科(医師)の小寺玄仲、鍼科・外科十三人、川警護、持送吏監ら二十一人。火防・人馬割担当十五人、総計およそ百七十人が野辺地から中野沢、脇野沢、牛滝、佐井と海岸視察に入った。
そのため、大畑川には手すり付きの仮橋を渡すことになった。
尻屋。白糠を通り、九月中旬に七戸方面に向かった。
ところで、市中通覧(大畑町の視察)の折、我ら町役もお供をした。
湊に抜ける道にさしかかった時、後ろの方から回ってきた尺牘*1を受け取り、すぐさま封を切り、開いてから、よく見ると、お供の者が開いてはいけない文面だったため驚き、うろたえた。
箱の上書きをよく見ると、代官から南部藩勘定鎮台への手紙だった。
もう一度封をし直して上呈した。
そう言えばこの頃、湧館に陣を築くべきかどうかと、湊から坂を登って御覧になったという噂が流れていた。
戸数、人別、船数、牛馬、石高全体で五千石の山海の図面を作成。
津軽の深浦通りから野辺地にかけてのものもあったらしい。
ロシアの南下で国防に不安の多い時節なので、翅つばさ=鳥が虚空で迷わぬように書かれた鳥瞰図*2であるという。
この時期、わが町から猿箇森(さるがもり)へたくさんの人間が接待の手伝いに駆り出された。
また、宿泊する宿の下検分のために八月上旬頃から七回も、変わり代わりに役人がやって来た。
以上、寛政五年の源さんの記録になります。
なんかイベントを1回やるだけで大変なのに、
数か月間も変わり代わり来られたら
いや~、町の人たちも大変だったろうなぁ。
盆と正月がいっぺんに来るってのは、まさにこんなことでしょうね。
さて、次回はそのラクスマンの来航をまた別の角度で原始謾筆風土年表・資料から紹介してみたいと思います。
つづく
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