源さんが行く176
お世話になっております、シヨウX3です。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
文化元年、源さんの記録を続けます。
文化元年(1804)の記録・其の六
■四文銭(しもんせん)はこの辺りでは出回っていない。
二朱銀はこの頃から出回る。
四文銭とは、寛永通宝のうち1768年以降に鋳造された真鍮銭(しんちゅうせん)。
普通の寛永通宝より大きく裏に波紋があるので波銭とも呼ぶ。安っぽくて軽い。
銭形平次が投げた技に使ったのがこの四文銭である。
その祝賀の使者が藩内を廻った。
大畑では百貫文と、各家々へ酒三合を賜った。
そして屋形(やかた)号*2を称することができるようになった。
寛政十一年(1799)十一月に始まった南部家の蝦夷地警衛は、ここに至って労苦が報われ、大名の頂点に位置する国持大名に列せられたことは、同家にとって未曽有の慶事であった。
国持大名とは、一国以上を領有する大名もしくは四品に叙せられてこれを称する者であった。
江戸時代①前田(加賀・能登越中)②松平(越前)③嶋津(薩摩・大隅)④毛利(長門・周防)⑤伊達(陸奥・仙台)⑥細川(肥後)⑦池田(因幡・伯耆)⑧鍋島(肥前・佐賀)⑨黒田(筑前)⑩浅野(安芸)⑪池田(備前)⑫佐竹(出羽・秋田)⑬上杉(出羽・米沢)⑭山内(土佐)⑮松平(出雲)⑯藤堂(伊勢・津)⑰有馬(筑紫・久留米)⑱蜂須賀(阿波・淡路)を国持十八家、宗(対馬)、南部(盛岡)を加えて国持二十家と言った。
国持大名になると、幕府の処置が著しく変化する。
位階が五位であれば、位記*3は高家が代理受納し、後に幕府を通して与えられた。
一方、四品の者は各自が使者を立てて朝廷から受納した。
インターネット資料【古文書を旅する】より
津軽藩主九代寧親(やすちか)公も、七万石格に昇格した。
津軽藩が蝦夷地警護の功績により四万六千石から七万石に高直(たかなお)しされたのは文化二年(1805)であり、源さんの記録とは一年のズレがあります。
しかし、一連の関連事項としてここに記したものであろうと解釈します。
津軽藩のこの高直しに不満を抱いた南部藩主利敬は蝦夷地永久警護を条件に高直し運動を行い、南部藩は文化五年(1808)十万石から二十万石に高直しされ、藩主は侍従に任官されます。
同じ日に弘前藩も十万石に高直しされます。
そして藩主利敬の死去後、受け継いだ南部藩主は無位無官だったため津軽藩主との関係を危惧した南部藩士の津軽藩主襲撃未遂事件、相馬大作事件まで起こります。
最初から読み直したい方は
第二集の最初から読みたい方は
第三集の最初から読みたい方は
第四集の最初から読みたい方は
第五集の最初から読みたい方は
第六集の最初から読みたい方は
第七集の最初から読みたい方は
第八集の最初から読みたい方は
第九集の最初から読みたい方は
第十集の最初から読みたい方は
第十一集最初から読みたい方は