実録:雨乞い
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回は佐藤ミドリ先生が意訳した
原始謾筆風土年表の天明七年の記録の中に、
善宝寺との関りあいの資料として、
大正時代の雨乞いの様子が載っていたので、
それを紹介したいと思います。
善宝寺と現代の雨乞い
酒田の善宝寺と大畑の関係は、江戸時代から現代まで連綿と続いている。
小目名の畑中磐美氏の聞き書き集から紹介します。
大正十年ごろ、わたしは山本組の杣夫で帳場(帳面付け)をしていました。
湯野股沢の組宿舎から、組頭の山本金太郎と二人で赤滝の滝壺の御礼祈願に行った時のことです。
その頃、大畑川上流の国有林から切り出された丸太は、
冬山で各沢の口に雪ソリをもって集積し、春の雪解け水と雨水を利用して
薬研の糸淵まで丸太を流送し、そこにせき止め、
そこからトロッコ積みし、大畑町まで蒸気機関車で輸送している時代でした。
例年であれば、六月中旬までに四、五万石の丸太を糸淵まで流送するのに、
七月上旬になっても雨水の不足で、雪解け水だけでは流送もはかどらず途方に暮れていました。
「坂田の善宝寺の御札をもらって雨乞い祈願したら」と営林署に話しても、
あまり乗り気にならなかったのですが、
組頭連中は相談して、高橋川の山本福松さんに坂田に行ってもらい、
御札を赤滝の滝壺に入水祈願する日になりました。
私は若いし、滝壺への御札納め役にされたわけです。
赤滝に行ったら、滝頭に祭壇を作り、私が体にロープを巻き付け、
善宝寺からもらってきた御札と酒一升をワッパ網*3に入れて、
約二十㍍下の滝壺に入り、
指示されたように御札を納め、
御神酒を二分の一、滝壺にささげ、
上では各人とも、私と一緒に柏手を打って拝み、
再度、滝の冷たいしぶきをぬって滝上にあげられた時は
ほっとしながらも、果たして雨が降るものかと内心思っておりました。
翌朝五時ころ、目を覚ましたら雨降りだったので、
組頭に御札がきいたのかと言ったら
「そうだ。夜中からいい雨が降ってきた。」と。
今日はケラを着て仕事だ。
各組とも、それぞれの部署、
堤に貯水する者、
丸太を流れやすく川に集める者、
受け堤で作業する者、
こわり*4直しをする者。
朝七時から組頭の指示で二日間の雨ふりを利用して、
約一か月半てこずった流送事業を見事に完了したことは、
私の杣夫時代の思い出として残したい貴重な一コマです。
(小目名の山本平蔵氏:談)
本当に雨乞いってあったんですね。
今でもやってるところってあるのかな?
さすがにこれだけの情報社会だと無いと思いますが…。