源さんが行く67
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政七年の記録に入ります。
源さんは48歳。宿老を続けております。
寛政七年(1795年)の記録・其の壱
◇生 涯 天明二年(1782)~文政三年(1820) 享年38歳
◇藩主在位 天明四年(満3歳)~文政三年(38歳) 在位36年
第三十六代南部藩主の利敬候は、父の死より、三歳で家督を相続した。
余りに幼すぎ、「末期(まつご)養子」*2の禁に触れることを恐れて、幕府には八歳と届け出た。江戸でそのまま暮らし続けて満十四歳になったこの年、初めて江戸屋敷から盛岡城に移った。これを「御入国」とか「御入部」という。
■第十一代将軍徳川家斉(いえなり)が小金原(こがねはら)御鹿狩 (おししかり)を行った。
徳川家十五代将軍の中で最も在位期間の長かったのが第十一代の家斉。
一ツ橋家から将軍・家治(いえはる)の養子となり、十五歳で将軍職に就いた。
側女(そばめ)四十人、子供五十五人という。
小金原(現在の千葉県松戸)で「御鹿狩」を体験した将軍は、吉宗、家斉、家慶(※慶喜が同行)の四人だけ。
狩は周到に準備を重ね、家斉の時には多数の勢子*3を 用い、数日にわたって小金原のあった下総のほか、上総、常陸、武蔵からも獲物を追い込んで行うという大規模なものだった。
鹿狩といっても、獲物はイノシシなど鹿以外の動物も多数含まれている。
狩には将軍の娯楽だけではなく、軍事演習と将軍の示威(しい)、農作物に害を及ぼし、小金牧(こがねまき)の馬のエサと競合する草食動物、馬を襲う野犬駆除などの目的もあった。
享保十年(1725)と翌年の二年、八代吉宗の行った鹿狩りについても村林源助は記録している。
へつづく
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