源さんが行く45
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政三年の記録の続きになります。
寛政三年(1791年)の記録・その弐
関根橋に以前から炭焼き職人ひとりと、この年に易国間から来た炭焼き職人ひとりを小目名に置き、二貫文を代官所に納めた。
漁船への課税は二貫二百文を 湊村に、二貫三百文を二枚橋に、三貫八百三十二文を赤川に、七貫六百六十四文を木野部にと合計十五貫文を割りふり、代官所へは以前通り三貫三百五十七文を納めた。
蠣崎(かきざき)の善吉の乗った船が、天明八年(1788年)十一月七日、脇野沢を出帆したが翌年、中国の福建へ漂着した。
翌年、長崎に帰りつき、四年目の今年五月十九日江戸に、七月二十一日ようやく帰郷した。
天明八年十一月、南部人・善吉、松前人・伊兵衛ら十五人乗りの松栄丸が、米麹、綿布、煙草等を積んで脇野沢から出帆しました。
北海道の石狩で交易し、乾鮭を積んで江戸に向かう途中、八戸沖で暴風にあい漂流、中国の福建に漂着しました。
そして三年目に、難民として十一人が長崎に帰り着き、江戸を経て帰郷の途につきました。
「日本漂流漂着資料/気象研究所発行」松井哲郎氏調べより
二ヶ月たって八戸辺りで見つかり、帰村することになった。
桑原は新田と言われていますが、天明の飢饉以前の集落は上新田と言って、今の役場庁舎の近くだったといまれます。
現在、六番札所の千手観音座像が安置されている桑原集会所の辺りは、八戸方面から戻ってきた人々が再興した地域だと言います。
大きな宝冠をかぶり、後背も念入りに彫られた高さ六十㌢ほどの観音様は全体に金箔が施され輝いています。
今日でも、隣村の砂子又では鉄の精練の後に出る金滓(きんさい)が残っており、かつては金の精練が盛んだったことを物語っています。
「下北半島三十三ヶ所観音霊場巡り/滝尻善栄著」大隅弘二氏調べより
大畑のイワシ船新造の際の税は免除されることになった。
秋、台風による洪水で川の洲先(すさき)が変わってしまった。
へつづく
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*1:ちょうさん=村を捨てて教に逃亡すること