源さんが行く152
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和二年の記録5です。
享和二年(1802)の記録・其の伍
ネギに葉虫が大発生
「蝦夷地の件については以前より進退を決し、東蝦夷地を当分の間、幕府御用地としてきた。
このたびは永久の上地*1を申し渡された。
西蝦夷地については、これまで通りとするとの仰せである。
なお、この件については厚き心をもって申し渡すよう仰せられたので、その意を受け止めよ。
七月二十五日 戸田采女正(うねめのかみ)」
「このたび、東蝦夷地が正式に幕府直轄領となるにつけ、毎年三千五百両を下された。
なお、これまで仮上地の御用地の代償として渡してきた代金や、武州久喜町(現・埼玉県内)の管理料、並びに東蝦夷地からの収益分として渡した御金は今後ないものとする。
その旨、若狭守(松前藩主)には伝えてある。
その意を受け止めよ。」
以上のことは、江戸城の波月の間において御老中各位の列座の場で、戸田采女から松前藩の堀三左衛門に対し申し渡された内容である。
北辺へのロシアの進出に対応するため、幕府は蝦夷地取締御用掛に代えて蝦夷奉行設置を内定し、小納戸(こなんど)戸川安論(やすとき、四十二歳)と目付・羽太荘左衛門正養(まさやす、五十一歳)の二名を任命した。
一七九二年のラクスマンの根室来航をきっかけとして、幕府は一七九九年に東蝦夷地を仮上知して直轄地として以来、蝦夷地取締御用掛に支配させるとともに、これからの蝦夷地経営の在り方を検討してきた。
一八〇〇年の蝦夷地巡察をもふまえ、前年には、三奉行らに蝦夷地経営の意見書提出を命じていた。
これらを検討した幕閣は、ロシアの進出に対応するため上知の必要性を確認し、蝦夷地全体を上知するか、東蝦夷地のみを上知するか、将軍家斉に裁断を仰いだ。
その結果、家茂は、東蝦夷地のみの上知を決定し、今回の決定となったものである。《正式決定は七月二十四日》
五月十一日に奉行の名将は箱館奉行と改められる。
初代奉行の任に就いた戸川安論は先の蝦夷地巡察を勤め、羽太正養も一七九九年より蝦夷地取締御用掛に携わっており、いずれも事情に精通した適任者。
松前藩主松前章広には、上知の代わりに年三千五百両が与えられることになる。
しかし、一七九九年の仮上知以来支給されていた東蝦夷地配分金などは廃止となり、西蝦夷地の統治に専念するよう命じられる。
【原始謾筆風土年表・資料より】
つづく
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*1:あげちorじょうち、上知とも表記