源さんが行く71
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政七年の記録・第五回です。
寛政七年(1795年)の記録・其の伍
■盛岡近郊で百姓の強訴*1が起こった。
ほら貝を吹き鳴らしながら、あわや藩庁(城)に押し入りそうな勢いになった。
その頃、八戸にも一揆があり、お触れが出された。
■多賀頼母(たのも)長郷が南部藩家老に昇格し、寛政十二年まで藩政に携わっている。その度量たるや、並々ではない。
先祖は豊臣秀吉の信任を得、朝鮮出兵にも参加した宮部氏。関ヶ原の戦い後、鳥取五万石の所領を没収され、身柄は南部利直に預けられた。
寛文七年(1667)、将軍秀忠の十七回忌の大赦により赦免。
南部家に出仕して六百六十六石を給され多賀姓に改姓。
源助が記録する多賀頼母とその父親・多賀図書(ずしょ)と二代にわたって南部藩家老を務めた。
深山神社の勝軍(しょうぐん)地蔵の東側の崖下の田んぼの辺りに三月二十四日からカエルが異常発生し、カエルの大群がカエル合戦でもしているような状況であった。
明和八年(1771)にも同じような状況が宝国寺の谷地で見られた。
延暦三年(784)には、大坂の難波津から天王寺にかけてカエルの大群が移動し、まさにカエル合戦の様相だったという。
応永十五年(1408)の室町時代には、御所の庭でもそんな異常発生があったらしい。
中島にある畑で働いていた婦人に近くの村の酔っぱらいが切りつけて傷を負わせ牢に入れられた。
享和元年(1801)には、大畑のある女性が甲*2で、赤川の酔っぱらいに怪我をさせられるという事件が起こり、宿老として私が事情を聞くことになったが、その酔っぱらい、何を聞いても口をつぐんで語らなかった。
以上、寛政七年の記録でした。
この年は南部藩主に幼い利敬候がなったことから始まり、春祈祷の話や、一揆の話などがありましたが比較的、平和な年だったように思います。
まあ平和が一番ですけど。
次回は寛政八年の記録に入っていきます。
へ つづく
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