源さんが行く166
お世話になっております、シヨウX3です。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの記録・享和三年その5です。
享和三年(1803)の記録・其の伍
(前回の続き)
然るに、中国の後漢時代、永平年間にインドの迦葉摩沸*1と竺法蘭*2が五岳*3の道士たちとが落葉の白馬寺において仏道と仙道の効と験を競った。
わが国では弘仁六年(815)八月、大和の大安寺の塔中院において最澄が止観の妙法を論じ、華厳宗、法相(ほっそう)宗、三論宗、倶舎(くしゃ)宗、成実宗、戒律宗はその矛盾を突かれて敗退した。けれども、一乗(法華経の教え)の権衡(つりあい)になぞらえて伏せおくことになったという。
弘仁十年(819)には清涼殿において、空海が即心即仏の義を唱え、三輪宗の道昌、唯識(ゆいしき)宗の源仁、華厳宗の道雄、止観(天台宗)の円澄などがこの論争に加わったものの、空海の説得力ある論調に白旗を上げた。
応和三年(963)には、比叡山の慈恵と南都(興福寺)の仲算、南寺(東大寺)の法蔵と北嶺(延暦寺)の覚慶とが、止観(天台宗)と唯識(法相宗)、法相宗と天台宗の論争を展開した。
建武元年(1334)には、比叡山の玄慧と柴野(大徳寺)の妙超、東寺の虎聖(虎関師錬)と南禅寺の大光(国師号、夢窓磁石)と清涼殿において止観と禅、真言と禅について問答を行っている。
天正七年(1579)には、貞安(ていあん、西光寺)と日珖(にっこう、頂妙寺)が安土において浄土宗と法華宗の宗論をおこなったが、経典の理解度は当初から明らか、弁別の余地なく結果は見えていた。
応和宗論
応和三年、宮中において天台・法相の両宗の学匠が一切成仏・二乗不成仏をめぐって行った論議。村上天皇は五日間十座、南都・北嶺の高僧各十人を清涼殿に招き法華会を催したが、その第二日夕座に問者であった天台の覚慶は、一切全ての者が成仏できると主張したのに対し、講師であった東大寺の法蔵が、成仏できるのは菩薩と不定(ふじょう)の一部に限定されると法相宗の立場から反論して論争となった。
安土宗論
天正七年、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の論争。安土問答とも称される。織田信長の命により浄土宗の僧、貞安と法華宗の日珖・日諦・日淵らの間で行われた。法華宗は敗れて処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。
つづく
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