こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~83

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お世話になっております、シヨウx3です。

 

南部のはなし83、ここからは正直進めていきたくありませんが、

顕家と尊氏の決着が着きます。

 

根城南部氏五代の誠忠(Ⅱ)

顕家・師行の戦死1

 顕家が天王寺を占領したといっても、わずか一週間足らずでした。

三月十四日にはもう高師直(こうのもろなお)天王寺に到着、その日のうちに攻撃を始めました。

三扇昔話」にはその兵力について

師直の勢一万余にして、味方は三千に過ぎず

と書かれています。

三分の一にも満たない少軍勢で大敵にあたったのです。

戦いは十四日から十六日まで続けられましたが、大軍のために次第に押されて、戦線は天王寺から次第に南の阿倍野方面にまで移されました。

 そこで天皇はさっそく九州の宇治維時(これとき)に勅命を下し、顕家を援助するよう再三命じましたが、援軍はただの一騎も来ませんでした。

 

 五月六日には和泉の観音寺(和泉市の南)に城を築いて、堺浦の足利軍を攻めました。しかし高師行は間もなく新手の大軍を率いて堺浦に到着、それからは文字通りの死闘が続けられました。

 

 さすがの顕家もこの大軍を目の前にして、自分の運命もこれまでと思ったのでしょう。

激戦の間のわずかな暇を見つけて、六か条の政治改革案を書き上げ、五月十五日に天皇に上奏をしました。

建武の新政が何故二年足らずで終わってしまったのか」また

「これからの政治はどう改むべきか」など

顕家は率直に自分の意見を天皇に申し上げました。

そしてその文の最後に

「もしこの言葉をお取り上げいただかなければ、天下の平和は望めないので、わたくしは山の中にでも隠れ住みたい気持ちです。」

と書いて上奏文を終わっています。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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 つづく

 

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