源さんが行く150
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和二年の記録3です。
享和二年(1802)の記録・其の参
また、開祖の一東異虎の百回忌には本堂のナゲシ飾りに大きな人形(ひとがた)を飾った。
今年は正面一丈五尺(4.5㍍)に鳳凰燈をめぐらし、ぼんぼりや燈籠額が大通りまで続いた。
道元禅師は建長四年(1253)に亡くなっているから、没後五百五十年は計算に合う。
横丁の治郎助の妻しのが四つ子を産んだ。
男の子一人だけが今も元気に生きている。
ところで、景行天皇には、親王の宣下のない腹違いの男子が七十五人いたが応保二年(1162)には四ツ子が生まれている。
今年、川内にはした女(め)が前の月に破水し、その後、突然おなかが割れて子供が産まれた。
貧しさのため養育ままならず一週間ぐらいで子供は死んでしまった。
母親は傷口も治り、ひと月は何ともなかったが、食あたりで死んだ。
いろいろな書物の中に書かれている特異な出産は、話としてだけでなく実際にあることなのかもしれない。
仁安元年(1166)には頭が二つ、手が四本、足が三本という結合児が産まれ、永禄七年(1564)には丹後で七歳で出産した例がある。
享和元年(1801)、京都で六ヶ月の早産で生まれた 嬰児は丈数㌢で、すでに目鼻がついていたが、耳は穴だけで耳たぶはまだ出来ておらず、男根はトウゴマほどの大きさで、へその緒は数㌢ほどで切れていたらしい。
中国宋の都では青果物を商う男が子供を産んだと伝えられる。
東本願寺の故十三世の発願(はつがん)により大寺を再建。
その後、何年間にもわたって東本願寺完成の祝いと、人々の厚い志に感謝する諸国巡り、さらに真言宗徒の拡大のために、教如の掛け軸一本ずつを各地方の信徒に配り与えた。
この下北あたりへは松前からやって来て、各信徒の家を訪問して回った。
その後、国境を巡り、津軽を最後に終わったと聞いている。
「教如」1558~1614、真宗大谷派の始祖。大谷派本願寺十二世。生まれたのは石山本願寺。1570年、織田信長との間に石山合戦が始まる。父の顕如を助け信長と徹底抗戦。父の退去後も立て籠城し、退去派と籠城派との間で教団が分裂する遠因をなした。後に東本願寺を開いた。
つづく
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源さんが行く149
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江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和二年の記録2です。
享和二年(1802)の記録・其の弐
山奥の暮らしにあきての放蕩と言おうか。
金五郎平のあたりをのらりくらりと徘徊する熊がいた。
湊屋清六の屋敷の蔵のあたりで一晩中、犬の吠え声が聞こえた。
明け方、熊が姿を現した所を杣夫たちが打ち殺した。
承平二年(932)には内裏の承明門*1の中に鹿が入り込み捕獲された。
また、前漢元帝の時代、虎のオリに獣を追い込んで戦わせていたが、猛り立った熊が囲いから抜け出しオリの上にいるところへ、なんと馮媛*2が、身を挺して帝を守り、女がてらにその熊に立ち向かったという。
辺りの眺めの良さもあって、ついつい酒が過ぎてしまった。
周囲の人々の制止するのも聞かず、よろめきながら帰路についた。
木和田川の丸木橋の所で、川に転げ落ちたのにも気づかず、溺れそうになってようやく状況を理解した。
通りかかりの人に助けられた。
これまでも、宴席から立ち上がれないほど酩酊*4し周りの人に支えられたり、川に落ちそうになったことが度々ある。
人の通りかかるのがもう少し遅かったら、この身はもうこの世にいなかったであろう。
それでもやめられないのが、飲んべえの業というもの。
水の事故といえば、元文(1736~41)の頃、沢田長七が材木の川流しの時に薬研の緑釡にはまってしまった。
とび鈎(かぎ)を力任せに振り回したがどこにも引っかからず、死んでしまった。
安永(1772~81)の頃には釣屋浜の源八が、奥薬研の冠淵(カモリ淵)の堰を抜く作業の時、溺死した。
天明(1781~89)の頃には新町の才次郎が薬研大滝の堰抜き作業中に溺れ、文化(1804~18)の頃には小目名の長左衛門が薬研の緑釡で溺れ死んでいる。
つづく
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源さんが行く148
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原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和二年の記録に入っていきます。
源さんは55歳になります。
享和二年(1802)の記録・其の壱
幕臣の佐藤茂兵衛と萩野藤太郎、及び大工の棟梁の橋本治郎兵衛配下の二十人が箱館奉行所造営のため良質の柾(まさ)材木を買いつけに来た。
箱館出役・南部藩監察の上田郡左衛門と兵九十人が野辺地から出帆したが、三十里先の木古内(きこない)沖で遭難、四十人余りが溺死した。
七月三十日から八月二日まで大畑は洪水。
孫次郎間街道の川岸を一町(百㍍強)ほど上がり、南岸の大石を掘って八幡宮の鳥居を作ろうとしたが、延べ七、八十工(※一人一日分の作業量を一工と数える。)で中止した。
宝国寺の応門(正門)の花壇にキクラゲが生えることがあった。
寛政六年(1793)、路地の大きな松の木が倒れたため、もしや生薬の茯苓*4が生えていないかと期待したら、なんと零芝*5が採れた。
へつづく
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おおはたまちができるまで~南部のはなし~67
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく15です。
みちのくの新政15
南北朝の所属に苦労した十一代・信長02
その頃の信長にとって何より幸いしたことは、分家の師行が北畠顕家の国代として糠部に赴任してきたことです。
分家とはいっても師行は宗家の出身なので、血縁から言うと、信長の父・義行と師行は従兄弟同士に当たります。
だから師行は信長のため顕家に南部氏が存続できるように懇願したのでしょう。
信長もまたさっそく馬鷹を贈って服従の意を明らかにしました。
その結果、今後朝廷方になることを条件に討伐は許してもらったのでしょう。
それに信長の兄弟・為重(義重)・仲行・茂行・信行も、これまで朝廷方として大いに活躍してきたので、信長の宮方転向にはよい材料になったに違いありません。
ようやく徴罪を逃れた信長は、その後しばらくの間は南朝方として働いたようです。
ただ、その間信長がどこを居住地としていたかは、歴史書に残っていません。
しかし信長の子・十二代政行や、十三代守行は明らかに三戸を根拠地としていたようなので、信長も、あるいは師行から三戸の管理を任されていたのかもしれません。
師行は顕家から、三戸と八戸を領地として与えられたようなので、南部氏ゆかりの地三戸の管理を、信長に任せたのではないでしょうか。
信長は年齢でいうと三十歳で武家方から朝廷方に変わり、さらに四十九歳で再び武家方に降伏したことになります。
その後は北朝に仕えて長生きをしたようですが、何度も戦乱に巻き込まれ、変転の激しかった南北朝の争乱時代に一生をすごしたといってもよいのでしょう。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]
おおはたまちができるまで~南部のはなし~66
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく14です。
みちのくの新政14
南北朝の所属に苦労した十一代・信長01
南部氏宗家(本家)は、初代光行の父・遠光以来代々鎌倉幕府に仕えてきました。
しかし分家の方は、光行の六男・実長が、日蓮の影響を受けて、その後代々反幕府方(朝廷方、宮方)として活躍しています。
同じ南部氏でありながら、本家は幕府方(武家方)、分家は宮方として百五十年近くもすごしてきました。
ところが元弘三年(1333)五月に北条高時が義貞らに攻められて、東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅んでしまうと、それまで幕府に仕えてきた多くの家来たちは、一夜にして領地を奪われ、世は全く逆転してしまいます。
長年幕府に仕えてきた南部氏宗家も、やはり同じ運命を逃れることはできませんでした。
第十代・茂時が鎌倉で自害をしたため、その後を弟・信長が継ぎましたが、それはただ十一代を継いだというだけで、領地も軍勢も持たない落武者のようなものでした。
だから信長は、名誉ある南部氏の家名を存続するために、どうしたらよいかだいぶ悩んだと思います。
幸い糠部には南部氏の支族がいたので、とにかく鎌倉を逃れ、しばらくの間は、その支族を頼って、民間に隠れ住んでいたといわれています。
「盛岡南部系図」によれば
兄茂時鎌倉に死す。邑*1除かる。
信長旧族を頼り、糠部に潜在す(隠れていた)。
元弘三年十月参議源顕家、陸奥の国司に任じ、皇子義良を奉じて国中を鎮撫す(とりしずめた)。
信長主として馬鷹を献じ(奉り)款を納る(よしみを通す)。
これより一意王家(朝廷方)に勤む。
と書かれています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]
*1:ゆう=領地
おおはたまちができるまで~南部のはなし~65
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく13です。
みちのくの新政13
尊氏の謀反
前から足利尊氏は再び武家政治を復興し、幕府を築くことをねらっていました。
だから内心、いつかこういう機会が来るのを待っていたと思われます。
北条時行が鎌倉を占領したということを聞いて、早速尊氏は天皇に鎌倉を取り返すために、総追捕史(そうついぶし)及び征夷大将軍に任ぜられることを願い出ます。
しかし天皇は、せっかく政権を回復したばかりだったので尊氏の願いを許すはずはありません。
かえって八月一日、前に直義(ただよし)とともに鎌倉にいた幼少の成良親王を征夷大将軍に任じました。
これに怒った尊氏は、天皇の許しも得ずに、勝手に翌二日、兵を率いて鎌倉に向かいました。
途中三河で弟・直義と会い、今度は次々に時行軍を破って、八月十九日にはついに鎌倉を奪い返しました。
天皇は尊氏が鎌倉に居を構え、再び武家政治を始めるのではないかと恐れ、従二位の位を授けて、直ちに京都に帰るように命じましたが、尊氏兄弟は帰ろうとはしませんでした。
そればかりか尊氏は鎌倉に永住の計画を立て、立派な屋敷を構えたり、勝手に部下に恩賞を与えたりしました。
奥州には陸奥の国司・北畠顕家がいるにもかまわず、一族の斯波家永(しば・いえなが)を奥州官僚(奥州の支配職)とし、また同じ一族・尾張三郎を陸奥守として派遣しました。
さらに十月になると、自分で勝手に征夷大将軍と称し将軍職の仕事を始めたので、尊氏は朝廷に相反し、再び武家政治を始めたことが明らかになりました。
糠部五戸の代官職が変わったのもこの頃でした。
五戸は代々相模(神奈川県)の三浦半島ほかの領主・三浦の介(すけ)の領地でしたが、その頃五戸の代官職は三浦の介時継でした。
これまでは長年北条氏に属していたので、八月十九日鎌倉が尊氏に攻められたときは、時行と共に戦いましたが、敗れたため、ついに時継は足利方に捕えられて、京の六条河原で打ち首にされています。
しかしその子・高継は、早くも時勢の動きを察して、足利方に寝返ります。
そのため、一度没収された父・時継の領地は、そのまま高継に引き継がれました。
この頃は親子兄弟でも敵味方に分かれて戦ったり、寝返りをしたりすることは珍しくありませんでした。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]