源さんが行く149
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和二年の記録2です。
享和二年(1802)の記録・其の弐
山奥の暮らしにあきての放蕩と言おうか。
金五郎平のあたりをのらりくらりと徘徊する熊がいた。
湊屋清六の屋敷の蔵のあたりで一晩中、犬の吠え声が聞こえた。
明け方、熊が姿を現した所を杣夫たちが打ち殺した。
承平二年(932)には内裏の承明門*1の中に鹿が入り込み捕獲された。
また、前漢元帝の時代、虎のオリに獣を追い込んで戦わせていたが、猛り立った熊が囲いから抜け出しオリの上にいるところへ、なんと馮媛*2が、身を挺して帝を守り、女がてらにその熊に立ち向かったという。
辺りの眺めの良さもあって、ついつい酒が過ぎてしまった。
周囲の人々の制止するのも聞かず、よろめきながら帰路についた。
木和田川の丸木橋の所で、川に転げ落ちたのにも気づかず、溺れそうになってようやく状況を理解した。
通りかかりの人に助けられた。
これまでも、宴席から立ち上がれないほど酩酊*4し周りの人に支えられたり、川に落ちそうになったことが度々ある。
人の通りかかるのがもう少し遅かったら、この身はもうこの世にいなかったであろう。
それでもやめられないのが、飲んべえの業というもの。
水の事故といえば、元文(1736~41)の頃、沢田長七が材木の川流しの時に薬研の緑釡にはまってしまった。
とび鈎(かぎ)を力任せに振り回したがどこにも引っかからず、死んでしまった。
安永(1772~81)の頃には釣屋浜の源八が、奥薬研の冠淵(カモリ淵)の堰を抜く作業の時、溺死した。
天明(1781~89)の頃には新町の才次郎が薬研大滝の堰抜き作業中に溺れ、文化(1804~18)の頃には小目名の長左衛門が薬研の緑釡で溺れ死んでいる。
つづく
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