源さんが行く147
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和元年の記録その8になります。
享和元年(1801)の記録・其の八
大安寺では去年の正月まで国家安泰を祈る修正会(しゅしょうえ)の祈祷を行う旨、懸札を下げた。十一世紀端介哲厳が昨年末から看司*1を勤める。
大安寺では開山の一東異虎(いっとういいん)の筆跡と伝える「修正」の二字を牡丹錦の表装額に仕立てて懸けている。
八戸の松山三郎右衛門の立花行脚。
万年青(おもと)・松・小歯朶(しだ)の三箇前置、牡丹・南天・大葉の三箇胴、松・桜・楓の三本一色、杜若(かきつばた)・菊・水仙・蓮の四草一色の流儀を説き、文化年間の初めにも再びやって来た。
ところで割胴、洞透、四方透、曲節が面白い。
室町時代の足利将軍家にお仕えした同朋衆*2茲最が、京都頂法寺(六角堂)の僧・池坊専慶(始祖)に生け花を伝え、中興の祖である池坊専好が理論化した。
真偽のほどはわからないが、池坊から全国の門人の指導者として派遣され相馬中村へやって来た者が、座敷の椅子に腰かけたまま立花を眺めていただけだったとか。
これでは、猫が人の血をなめるのを徳といい、獅子には瀕死の動物も生き返らせる威厳があるとし、フクロウの毛を雪といい、人の寝たふりをタヌキ寝入りと言うに等しいではないか?
箱館から山越内、虻田、有珠、室蘭へは百石で十五両。
幌別、阿色、白老、勇払へは十三両に鮭三百束増し七両と合わせて二十両、外に三百束ずつは船中の手当分。
浦川、様似、油駒(あぶらこま、エリモ町)は十五両。
十勝へは十八両。
白糠は二十二両。
釧路、厚岸は二十五両。
根室、クナシリへは三十両に、鮭三百束ずつで四十五両、外に五十束は船頭、二十五束ずつは水主(かこ=船員)へ。
エトロフへは去年は七十両。
兵庫の高田屋嘉兵衛がクナシリ航路を開拓。それまでは貨物の値は運賃と同じだったが、この島の潮流や距離を調べ航路にも慣れてきたとのことで運賃は五十両に減額。
文化年間には三十五両から三十両と減額されたのは、あまりの暴挙といえよう。
へつづく
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源さんが行く146
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和元年の記録その7になります。
享和元年(1801)の記録・其の七
江戸の山口第助は、骨董の目利きである。
文化二年にも大畑に来た。
茶入れには茄子形、常陸帯*1、大海小海、鶴首、瓢箪、瓜形、瓶子*2、甲乙形、鮟鱇*3、飯胴*4、餓鬼腹、梯形、達磨、餌畚*5太鼓。井戸(茶碗)、熊川*6、三島手*7、伯庵瀬戸系統の窯で焼いた茶碗に長治郎(楽焼の始祖)の楽焼さらに萩焼唐津焼、……
名水には中国では無錫(むしゃく)恵山寺虎丘、揚州の大明寺、淮河(わいが)、我が国では大坂城の黄金川、加茂川、伏見大橋の下の水。
磁器は砧(きぬた)青磁*8、浅黄色は時代が古く、花筒や香炉もある。鯉手、浮き牡丹、沈手、牡丹手、天龍寺竹の節は、延宝の頃、我が国に伝わったものである。
古美術の鑑定は、了佐、了栄、了祐、了周などと夜遅くまで話題が尽きなかった。
寛政九年(1797)から盛岡流の神楽獅子が田名部横迎組、栗山組、目名組、小目名組と年々行われた。
小目名組の神楽は、この年から大畑の祭礼の行列にも参加していたが、三年で中断した。
幕府御三方(松平、石川、羽太の三氏)が無事に佐井湊から北海道へ渡海させたとして関係者に褒賞が与えられた。
その件で田名部代官所に出向いた時のことである。
帰路に関根八幡宮の杉の木の落雷の跡を目にした。
太さ五尺余りの大木の根元から、八尺ほど上までぐしゃぐしゃに割れて折れ曲がり、砕け散っていた。
何ほどのものをもって打ったとて、これほどになるものかと驚くばかりだった。
同じ日、目名の里にも落雷があったらしい。
へつづく
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おおはたまちができるまで~南部のはなし~64
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく12です。
みちのくの新政12
中先代の乱02
北条時行の軍は勢いに乗って鎌倉を占領しましたが、その後わずか二十日ばかりで、再び尊氏や直義らの軍に追われてしまいます。なので「二十日先代」などともよばれています。
ところで尊氏の弟・直義(ただよし)はこの戦では、鎌倉の北三十㌔余の井出沢(東京都町田市)で戦っていましたが、敗れたため、そのまま夜にまぎれ、三河(愛知県東部)をさして逃亡しました。
しかし抜目のない直義は逃げる際にも、鎌倉に監禁している護良(もりよし)親王の事は忘れませんでした。
時行が鎌倉に入った後、護良親王を大将軍として、再び大きな勢力を得ることを恐れたのです。
直義は密かに家来の渕辺義博(ふちべよしひろ)に命じて、再び鎌倉に引き返させました。
そして護良親王は哀れ二十八歳の若さで、その義博によって、暗い土牢の中で最期を遂げたのでした。
「時行が鎌倉を占領した」というニュースは、たちまち奥州の各地にも伝えられたことと思われます。
これに応じて立ち上がる時行の党があちこちに現れました。
建武二年八月十三日、北畠顕家は、南部氏・伊達氏に命じてこれらの反乱軍を平定させています。
「八戸系図」には師行の弟・政長が国司(顕家)の命により兵を出して、所在に(いたる所で)賊を討つと書かれています。
また「南部世譜附録」によれば、信長(南部宗家十一代)の弟・信行も国司軍を率い、津軽山辺(黒石市付近)で戦い、殊功をあげたといわれています。
鎌倉を占領した時行に応じて動き出した北条氏の残党を、南部政長や宗家の信行・伊達氏らが、顕家の命によって討伐したのでした。
同年九月一日に政長はその戦功を賞されています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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おおはたまちができるまで~南部のはなし~63
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく11です。
みちのくの新政11
中先代の乱01
中央の情勢が混乱していたのですから、その影響が地方に及ばないはずがありません。
鎌倉幕府滅亡のとき地方に逃れた北条氏の残党があちこちで乱を起こしました。
前に紹介した津軽の乱もその一つですが、そのほかに南関東、北九州、日向、越後、紀伊、長門、伊予、信濃など、ほとんど全国的に北条氏残党の乱が起きています。
特に建武二年(1335)六月には、天皇のお膝元・京都でさえも、反朝廷派の陰謀事件が発生しました。
それは幕府支持派であった公卿の西園寺公宗(きんむね)が主謀者で、武士としてそれに協力したのは、あの南部太郎(義行/茂時の父)が案内して奥州に逃れた、北条高時の弟・泰家でした。
泰家は信濃(新潟県)にいる高時の次男・時行と連絡しあって、同時に兵をあげる計画でした。
だが公宗の弟・公重(きんしげ)が天皇方にそれを密告したため、この一味はたちまち捕らえられてしまいました。
京都の陰謀はこうして失敗に終わりましたが、信濃にいた北条時行は、翌七月に兵をあげ、新政に不満を持っていた関東や奥州の豪族たちが多く時行軍に加わり、総勢五万余騎になったといわれています。
その頃鎌倉を守っていた足利直義は、その勢いに乗った時行軍のために各地で敗れ、ついに時行は建武二年七月二十五日に再び鎌倉を占領しました。
この時行の乱は「中先代の乱」と呼ばれています。
中先代というのは、北条氏が執権であった鎌倉時代を先代といい、後の足利氏の時代を後代といったので、この時代の代はその中間であったので「中先代」と呼ばれています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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おおはたまちができるまで~南部のはなし~62
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南北朝時代のみちのく10です。
みちのくの新政10
建武新政の乱れ
建武元年八月、京都の二条河原に次のような落書きが張り出されました。
このごろ都にはやるもの 夜討、強盗、謀綸旨(にせりんじ)
召人(めしゅうど)、早馬、虚騒動 生頸、還俗、自由出家
俄大名(にわかだいみょう)、迷者 安堵、恩賞、虚軍(そらいくさ)
本領はなる訴訟人 文書入れたる細葛(ほそつづら)
追従、讒人(ざんにん)、禅律僧 下剋上する成出者
きつけぬ冠(かんむり)、上の絹
持ちもならわぬ笏持って 内裏まじわり珍しや
顕家たちが東北で、新政実現のため奔走していたころ、都の情勢はこのように混乱を極めていました。
火つけ、強盗、辻斬り(人殺し)など珍しくありませんでした。
その原因は、政権を握った後醍醐天皇と、当時の実力者・足利尊氏、それに天皇の片腕として活躍していた護良(もりなが)親王の三人が、それぞれ親政についての考えが違い、不和・対立を続けていたからでした。
天皇はあくまでも平安時代(後醍醐天皇のころ)のような君主専制政治を実現しようとし、足利尊氏はそれとは反対に、鎌倉時代と同じ武家政治を再興し、自分が征夷大将軍になろうとしていたのです。
護良親王は早くもその野望を見抜き、武力を用いても尊氏をおさえようとしていました。
しかし軍事力では大差があるので、親王は密かに令旨*1を発して、兵力を集めようとしていました。
でもその新王の動きを知った尊氏は、ひそかに天皇に、「親王が兵力を集めているのは、謀反を起こして、政権をねらう野心があるからに違いない。」と告げ口をしたのでした。
天皇はすっかりその言葉を信じてしまいます。
建武元年(1334)十月二十二日の夜、天皇は、何も知らずに参内*2した護良親王を、いきなり護衛兵に命じて捕えさせてしまいました。
捕虜になった親王は、尊氏によって鎌倉に送られました。
その頃鎌倉には尊氏の弟・直義(ただよし)がいて、恐れ多くも天皇の皇子・護良親王を土牢の中に閉じ込めてしまいました。
みちのく多賀にいる北畠親房は、この話を聞いて、どんなに悔しがったでしょう。
親房と親王とは母方の従兄弟に当たります。
また親王にとって親房は、舅・婿の関係*3にもなっていました。
だから新王からの令旨を受け取った親房は、早速親王のもとに陸奥の兵を送っていたのでしょう。
親王が突然捕虜になった時には、供をしていた兵の中には、南部や工藤を名乗る者がいて、数十人の陸奥兵が同時に捕えられたともいわれています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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