未来の蓬田村では~鎌倉時代編~エピソード1-5
よもぎたむらができるまで49
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
鎌倉幕府の成立
1192年
頼朝は、配下の武士と主従関係を結び、御恩として、武士に以前からの領地を保護したり、新しい領地を与えました。
その武士は御家人として、将軍に忠誠を誓い、軍役の義務を果たすなどの奉公に努めました。
幕府は御家人たちに全国各地の所領を与え、地頭に任命します。
東北地方の地頭に任命されたのは
葛西氏、伊沢氏、畠山、北条、三浦、足利、中条といった関東に拠点を置く有力御家人たちでした。
彼らは自ら赴くことはなく、庶子*1や一族、または家臣や現地の豪族を代官=地頭代として登用しました。
その中でも、津軽の多くの郡を所有したのが、北条得宗家でした。
そして、安倍貞任の家系と言われる安東氏一族が蝦夷対応を任されて、一時代を築くことになるのです。
【参考引用文献/教科書と一緒に読む津軽の歴史】
と、ここでイッキに安東の乱まで進めようと思っていたのですが、
青森県にとって重要なもうひとつの一族を進めていかないと、
どうにも歴史が一方的になってしまうことに気付きました。
その一族とは、大畑町にも関係してくる南部氏一族です。
ということで次回からは、おおはたまちができるまでに移りまして
南部一族を進めてまいります。
それと並行して未来の蓬田村・鎌倉時代編の話は続けていきますので
こちらもよろしくお願いします。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~1 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
よもぎたむらができるまで48
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
大河兼任の乱クライマックスです。
大河兼任の乱3
1190年2月6日
頼朝は、奥州に対して、兼任に味方いたものでも、降伏したならば減刑する旨を伝える使者を遣わします。
また、兼任に加担した陸奥国留守所の新留守所・本留守を葛西清重に預けて、甲(よろい)二百領の科科*1を徴すること、追悼の軍勢が塩竈(しおがま)神社などの神領に立ち入って瓏石を働かないことなども命じます。
2月11日
兼任追討のため発遣した軍勢や陸奥在国の御家人たちは平泉に向かいます。
鎌倉方は栗原一迫から兼任方を追いかけ、五百余騎を率いて衣川に陣していた兼任方と合戦となりますが、兼任方は北上川を渡って逃げていきます。
さらに追討したところ、
兼任方は、外浜と糠部の間の有多宇末井の梯(うとうまいのかけはし=現・青森市浅虫と久栗坂の間にある善知鳥崎)において、この山を城郭として引きこもりますが、ついに敗北。
兼任自身は逃げ延び、郎従らは斬首あるいは降伏します。
その後しばらく兼任の行方は分からなくなります。
3月10日
栗原寺付近(現・宮城県栗原市)で錦のハバキをつけて、金作りの太刀を帯していたところを怪しんだ木こりたち数十人に囲まれ、斧で打ち殺されてしまいます。
追討軍の千葉胤正らは、この報告を受けて、兼任の首実検を行いました。
生け捕りは数十人に及びました。
こうして約3か月に及んだ大河兼任の乱は終息しました。
頼朝はやっとのことで東北全領域を自分のものにすることができたのでした。
いよいよ時代は鎌倉時代に入っていきます。
【参考引用文献/青森県史】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
*1:かりょう=軽犯罪
よもぎたむらができるまで47
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
大河兼任の乱を進めます。
大河兼任の乱2
1190年1月6日
奥州合戦で捕らえられていた兼任の弟・忠季(ただすえ)は頼朝の御家人となって奥州に戻ろうとしている途中に、兄・兼任の蜂起を知ります。
忠季は頼朝への忠誠を示すため、鎌倉に引き返します。
戻った忠季は、頼朝から兼任追討を命じられます。
1月8日
頼朝は海道の大将軍を千葉常胤(ちばつねたね)、
山道の大将軍を比企能員(ひきよしかず)として兼任追討軍を派遣します。
海道の奥州住人・岩崎の輩は、常胤の到着を待たずに先陣を進めます。
頼朝は奥州に拠点を置いた御家人たちに、岩崎の輩とともに合戦することを命令し、
また奥州に所領を得た北関東の御家人にも急行するように命じます。
1月23日
しかし、いまだ鎌倉方から到着した軍兵がおらず、
逆に兼任方が群集していたという始末。
1月27日
小鹿島公成(おがしまきみなり)が奥州から参上。
兼任の囲みをいったん逃れ、合戦に遅れると仲間が陰口をたたくと聞いたので、鎌倉に馳せ参じたという。
1月29日
頼朝は使者を奥州に遣わして、奥州外から来た、あるいは奥州在国の輩は各々同心し、合議を行ったうえで合戦を遂げるよう命じます。
2月5日
頼朝は合戦の検分を行うため、雑色*1を奥州に遣わします。
兼任方の蜂起を恐れて、御家人の武勇がふるわなければ、頼朝自身、現地に向かうつもりだったらしいです。
また頼朝は山や沢などにおいて、機動性を持つ歩兵を用いて、主要な敵の所在を探し求めて襲撃するよう命令します。
いまだ頼朝の支配権が奥州全域に行き渡る前に兼任の乱が勃発したため、どこから兼任に協力する第二、三の反乱が起きるかわからない不穏な状況だったことがわかります。
【参考引用文献/青森県史】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
*1:ざっしき=下級役人
よもぎたむらができるまで46
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
話は、源頼朝が平泉を手に入れた二か月後からはじめます。
大河兼任の乱1
1189年12月
奥州合戦に決着がつき、さあこれから本格的に東北地方の改革に乗り出そうとしている矢先に、
「源義経、源義仲、藤原秀衡の子息らが、結束して、鎌倉を攻めようとしている。」
という噂が、奥州から頼朝の耳に届きます。
「なんだとぉ~!」と苛立った頼朝は
12月24日 工藤行光(ゆきみつ)、由利維平(ゆりこれひら)、宮六国平(みやろくくにひら)らを奥州に派遣します。
ほどなく、泰衡に仕えていた大河兼任(おおかわかねとう)らが蜂起します。
兼任は八郎潟付近(現・秋田県五城目町)を本拠としていましたが、
義仲の嫡男・朝日冠者(あさひかじゃ)となって出羽国山北郡にあらわれたりしていました。
そして7千騎余の軍勢を率いて鎌倉を目指して出発します。
大河兼任の乱の始まりです。
兼任軍は河北から秋田城を経て多賀国府(陸奥国府)へと向かいます。
しかし志加(しか)の渡(八郎潟)を渡ろうとしたとき、氷が割れて5千人余りが溺死してしまいます。
そこで兼任軍は進路を北に向け、
小鹿島(おがしま)大社付近で由利維平と合戦。
由利を討ち取ります。
さらに津軽にいたり合戦して多くの御家人等を殺したと鎌倉に報告が入ります。
【参考引用文献/青森県史】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
未来の蓬田村では~鎌倉時代編~エピソード0
カマキリの幼虫の逆襲Ⅱ
どうも、しょうさんです。
前回のカマキリの幼虫の逆襲のつづきです。
カマキリの幼虫の逆襲Ⅰ
どうも、しょうさんです。
前回のカマキリのたまごの続編(?)です。
つづきます。
源さんが行く71
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政七年の記録・第五回です。
寛政七年(1795年)の記録・其の伍
■盛岡近郊で百姓の強訴*1が起こった。
ほら貝を吹き鳴らしながら、あわや藩庁(城)に押し入りそうな勢いになった。
その頃、八戸にも一揆があり、お触れが出された。
■多賀頼母(たのも)長郷が南部藩家老に昇格し、寛政十二年まで藩政に携わっている。その度量たるや、並々ではない。
先祖は豊臣秀吉の信任を得、朝鮮出兵にも参加した宮部氏。関ヶ原の戦い後、鳥取五万石の所領を没収され、身柄は南部利直に預けられた。
寛文七年(1667)、将軍秀忠の十七回忌の大赦により赦免。
南部家に出仕して六百六十六石を給され多賀姓に改姓。
源助が記録する多賀頼母とその父親・多賀図書(ずしょ)と二代にわたって南部藩家老を務めた。
深山神社の勝軍(しょうぐん)地蔵の東側の崖下の田んぼの辺りに三月二十四日からカエルが異常発生し、カエルの大群がカエル合戦でもしているような状況であった。
明和八年(1771)にも同じような状況が宝国寺の谷地で見られた。
延暦三年(784)には、大坂の難波津から天王寺にかけてカエルの大群が移動し、まさにカエル合戦の様相だったという。
応永十五年(1408)の室町時代には、御所の庭でもそんな異常発生があったらしい。
中島にある畑で働いていた婦人に近くの村の酔っぱらいが切りつけて傷を負わせ牢に入れられた。
享和元年(1801)には、大畑のある女性が甲*2で、赤川の酔っぱらいに怪我をさせられるという事件が起こり、宿老として私が事情を聞くことになったが、その酔っぱらい、何を聞いても口をつぐんで語らなかった。
以上、寛政七年の記録でした。
この年は南部藩主に幼い利敬候がなったことから始まり、春祈祷の話や、一揆の話などがありましたが比較的、平和な年だったように思います。
まあ平和が一番ですけど。
次回は寛政八年の記録に入っていきます。
へ つづく
最初から読み直したい方は
第二集の最初から読みたい方は
第三集の最初から読みたい方は
源さんが行く70
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政七年の記録・第四回です。
寛政七年(1795年)の記録・其の四/春祈願のはなし2
わが国では、允恭天皇の三年に新羅(しらぎ)に遣いを送り医術を導き入れた。
承暦三年には逆に、高麗(こうらい)からわが国の医術を学ぼうと使節が来たというから、日本の医術はかなり隆盛期に入っていたのだろう。
医師の家系は古代の和気(わけ)氏、丹波氏二家の世襲となり、そこからさらに半井(なからい)氏が生まれ、今大路、久志本、香川、吉益(よします)、山脇氏とつながる。
ところでびっくりする話だが、享保十七年(1732)に長崎に渡来した中国人が、太宰春台の編箒した「古文孝経」を見て、当時の清に伝わっている孝経はたいへん間違いが多いと気づき、周代からの原典をここで得ることができたと感激して、数冊を購入し中国に戻ったという。
大畑では、寛延の頃(1748~51)までは松林大宝院慈元が、蟇目(ひきめ)の修法*1を行い、薬師堂で十七日間、通夜籠もりしたと言われる。
今年は、密教の御修法*2にならい、愛宕山宝勝院慈現が護摩(ごま)を焚き、不動明王とその脇侍の矜羯羅(こんがら)童子、制多迦(せいたか)童子に対して護摩壇をくゆらせ、念誦(ねんじゅ)経と呪文を繰り返し唱えた。
へつづく
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