源さんが行く69
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政七年の記録・第三回です。
寛政七年(1795年)の記録・其の参/春祈願のはなし1
この辺りのお金持ちの家では春祈祷と称し、修験を招いて任王会*1を行う。これは、万治の頃(1657~61)に始まったと言われる。
それと近い頃に、禅僧による般若(はんにゃ)理趣経(りしゅきょう)による法会(ほうえ)も行われた。
任王会は、日本では斉明天皇六年(660)に始まった。
五大力(ごだいりき)菩薩とは、金剛吼(く)、竜王吼、無畏(むい)十力(じゅうりき)吼、電電吼、無量力吼である。
また、山の神というのは女性のようだったり、右手に斧を持ち左手には丸めた縄を握る姿だったり、役小角(えんのおづの)の像だったり、最近では大山祇命(おおやまずみのみこと)を描いた画軸だったりする。
医者の家では、年末に近い臘八*2の日に薬師菜草*3にゆかりの中国の伝説の帝王・新農*4の画像を祀るが、張仲景*5を祀る家もあるらしい。
そんなわけで、中国式衣装を身につけ懐手(ふところで)の秦、越人の人物が描かれる。
朱丹渓劉河澗高陽生等なども掛け軸に描かれる。
我が国の大巳貴命*6、少名彦名命*7の時代は遠く及ばないが、清の国では呂洞賓*8を祭るというから長生きな仙人に由来すると言えようか。
へつづく
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原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政七年の記録・第二回です。
寛政七年(1795年)の記録・其の弐
天明の凶作の頃、家系の絶えた潰れ家二十五軒の耕作放棄地分の八石一斗三升、洪水等により耕作不能になった田畑分の五斗三升の租税は田名部代官所の年貢からは除かれた。
その調査担当官として南部藩勘定局から上野甚五右衛門、下斗米勘蔵、玉山栄作がやって来た。
三人は、耕作放棄地と、洪水により耕作不能となった土地を実際に訪れて確かめ、持参した台帳と広さを照合した。それにはいささかの誤差も許されなかった。
こうした場合、親類縁者に年貢の肩代わりをさせようというのが、これまでの処置であった。
確かに天明の凶作までは親類縁者で助け合って年貢を納めてきたが、その親類縁者さえ死に絶えた二十五軒なのだということを我々は三人の役人に必死で訴えた。
大安寺の涅槃像*1を易国間の東伝寺に譲った。
二代目は火事で焼失、三代目は軸に描かれたものであった。
明兆(みんちょう)1352年~1431年 室町初期の画僧。
東福寺には五百羅漢図など今も作品が残る。
大安寺にも兆殿司筆の「蓬莱羅漢図三幅対」の画軸が伝わる。
へつづく
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原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政七年の記録に入ります。
源さんは48歳。宿老を続けております。
寛政七年(1795年)の記録・其の壱
◇生 涯 天明二年(1782)~文政三年(1820) 享年38歳
◇藩主在位 天明四年(満3歳)~文政三年(38歳) 在位36年
第三十六代南部藩主の利敬候は、父の死より、三歳で家督を相続した。
余りに幼すぎ、「末期(まつご)養子」*2の禁に触れることを恐れて、幕府には八歳と届け出た。江戸でそのまま暮らし続けて満十四歳になったこの年、初めて江戸屋敷から盛岡城に移った。これを「御入国」とか「御入部」という。
■第十一代将軍徳川家斉(いえなり)が小金原(こがねはら)御鹿狩 (おししかり)を行った。
徳川家十五代将軍の中で最も在位期間の長かったのが第十一代の家斉。
一ツ橋家から将軍・家治(いえはる)の養子となり、十五歳で将軍職に就いた。
側女(そばめ)四十人、子供五十五人という。
小金原(現在の千葉県松戸)で「御鹿狩」を体験した将軍は、吉宗、家斉、家慶(※慶喜が同行)の四人だけ。
狩は周到に準備を重ね、家斉の時には多数の勢子*3を 用い、数日にわたって小金原のあった下総のほか、上総、常陸、武蔵からも獲物を追い込んで行うという大規模なものだった。
鹿狩といっても、獲物はイノシシなど鹿以外の動物も多数含まれている。
狩には将軍の娯楽だけではなく、軍事演習と将軍の示威(しい)、農作物に害を及ぼし、小金牧(こがねまき)の馬のエサと競合する草食動物、馬を襲う野犬駆除などの目的もあった。
享保十年(1725)と翌年の二年、八代吉宗の行った鹿狩りについても村林源助は記録している。
へつづく
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漫画を描いてみて思ったこと
どうも、しょうさんです。
漫画版・未来の蓬田村シリーズを描いてから半月ぐらい経ちまして、いろいろ考えることがあります。
それは、描いてるときに思ったこともあれば、描き終わってから改めて思い返して感じることもあります。
私は描いてる途中で風邪をひきまして、テンション、ガタ落ちの中、未来の蓬田村シリーズを描きました。
正直、絵を描くことすらめんどくさい状態でした。
でも描きました。
あれ、あの絵はどう描けばいいんだろう?
と思ったことも多々あります。
即ネットで調べて(便利な時代ですね)それを見本に描きました。
描くのが初めてな物体など、数時間かけて、一コマのために時間を費やしました。
プロの漫画家はそんなの日常茶飯事なんだろうな。
と思いました。
それがプロであって、仕事なんだろうな。
と思えました。
多分そう思った自分の考えはあながち間違っていないだろうと思います。
そこには自分も仕事人として、数十年生きてきている経験があるからです。
そして、漫画家のみなさんが苦手な物体を、それでも一コマのために時間を費やして描こうと思うのは、
もちろん自分の納得する作品に仕上げたい気持ちもあると思いますが、
なにより漫画が好きなんだと思います。
なんか知った風に話している私も実は漫画家を目指していたのかもしれません。
でも、ひそかに目指していた私の前に現れたのは
同郷の「シャーマンキング」の武井宏之氏であり(弟の同級生)、
松本大洋氏でありました。
どっかにプロになるからには一番になりたいという野心があったのだろうと思います。
だから同郷の武井氏の「シャーマンキング」がアニメ化されるまでの人気になったこと、松本大洋氏の世界観に太刀打ちできないな。と思ったことで、ひそかに思っていた想いは想いのまま自然消滅して、一般社会人として、それなりにキャリアを積むことになりました。
それはそれでいいです。
実際、私は自分のブログで好き勝手に漫画を描けているわけですから。
でもそこなんですよね。
プロは好き勝手には描けません。
編集者の要望、読者の期待のために、ひとつひとつ苦手をなくして、教養を高めていかなければなりません。
腱鞘炎になるなんて当たり前。期日が迫っていれば、寝ないで、風邪をひいていようが仕上げるのが当たり前。
そして、それまでのクオリティを下げることもしません。
絵が好き、うまいだけでは済まされない世界だと思います。
で、今はそういうことを当たり前に思える自分を誇りにも思えます。
結局、仕事とはみんな同じなんだなと。
漫画家になったことがないので、その大変さは比べようがないですが、私も50年生きてきてそれなりに苦労をしてきたので、わかる部分があるということです。
今は、ワンピースを読んでて、この終盤でここまで読者を引き付ける内容に感服しますし、
社会現象になっている鬼滅の刃には、その世界観と心情の描写にかなわないと思います。
漫画家はスゴイと思います。職人です。
だからブログを始めてよかったなと思っています。
好きな漫画を好き勝手に描ける場所を見つけたわけですから。
(正直、もっと絵が上手くなって、アクセスの増える内容の漫画を描きたいというイヤらしい思いもありますが。)
でも、どうしてもイチからやり直しだと思った職種もあります。
それは去年初めて参加したPTAのオヤジの会での模擬店での売り出す食品のセッティングと段取りです。
右も左もわかりませんでした。
売る食品の仕込みから始めたらいいのか、場所のおおまかなセッティングから始めたらいいのか、それすらわかりませんでした。
決定的にダメージを覚えたのは、その職種が実は生きていくことに直結する職種であることに気づいたときです。
なので(オチになりますけど)私は今だに空想の世界でしか生きていけないという事ですね。
あんまし気張らず、あんまり手抜きしないで、お気楽ご気楽で、これからも適度に頑張っていきますので、よろしくお願いします。
源さんが行く66
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政六年の記録・第五回です。
寛政六年(1794年)の記録・其の伍
松前藩でも、南部藩に真似て私大(わたくしだい)の祝い*1が行われていたが、この頃から行われなくなった。
ところで、神亀二年(725年)冬至の祝いを催してから、寛平二年(890年)閏(うるう)十月の小の月(二十九日)を大の月(三十日)にして一日を冬至に充(あ)てた。
しかし、冬至から冬至までは三百六十六日あり、これを天度の左旋といい二十四節気*3を配した。
一ヶ月には大の月と小の月があって、一年の日数が三百五十四日となり、十二日が不足になる。そのため、おおよそ三十二か月に一閏(いちうるう)を置き、節気が晦日であれば後の月を閏とし、中気*4が一日であれば前の月を閏として、一年に十二日分の不足を補った。
ところが、ロシアでは一、三、五、七、八、十、十二月の七ヶ月をひと月三十一日とし、四、六、九、十一月の四ヶ月が三十日と数え、二月のひと月を二十八日としている。
なるほどと思う。
大黒屋光大夫を送り届けて根室に着船した日を、彼らは十月九日と記すが、その日は我が国では九月三日である。昨非今是*5はあえて言うまい。四年に一度の閏年を置くそうだ。
そうなると…歳時の混乱が起こりそうだ。
農業や養蚕の季節が暦とずれ、月の満ち欠け、潮の干満とも合わず、あらゆる職業に障りが出そうだ。現在(旧暦)では満月にハマグリが満ち、闇夜には魚が少なくなる。物事に晦朔*6があり、社日*7には燕が去来する。
春、雁が北に向かうのは四時*8を知っているからであり、
蓮や桐などの植物も冬には休眠し、自然の変化、暑さ寒さに応じている。
宮中行事でも、寛平元年(889年)に四方拝*9が始まり鶴亀などの献饌*10を行った。
玄猪*11には亥の子餅を大坂の能勢那門大夫から奏り。
三河万歳が毎年江戸城に参入する習わしや南部藩の祖にまつわる私大の祝いも旧暦の暦により受け継がれてきたものである。
蛇沼宗左衛門の餻餅(こなもち)と相前亦四郎の亀のタタキ(料理)は、いずれも故実の良きエピソードとして今も残る。
以上、寛政六年の記録でした。
もう最後の方は、何の話かわからなくなって打ち込んでいました。
要は今の暦と旧暦の違いなんでしょうけど、正直こんがらがっていました。
改めて源さんがかなり博学があるってことでした。
次回からは寛政七年の記録に入ります。
へつづく
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*1:旧暦で十二月が小の月(29日)の場合に年末を一日遅らせて元旦を大晦日とし、一月二日を元旦として祝う風習。その由来は南部家先祖のある史実による
*2:さくたんといじ=陰暦十一月一日が冬至に当たる日。ほぼ十九年に一度のことで、これを吉日として、公卿は賀表を奉り、天皇は紫宸殿に出御して祝った。これを朔旦冬至の旬という
*3:十二の節気と十二の中気の総称。冬至点は十一月と固定し、各月に中気を固定するという原則を決めた
*5:さくひこんぜ=陶淵明の「帰去来辞」から。境遇が一変して、昨日非と思ったことが今日は是と思うようになること
*7:しゃにち=春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日。土の神を祭って春は五穀豊穣を祈り、秋は収穫のお礼参りをする
*8:しじ=季節
*9:元旦に行われる宮廷行事
*10:けんせん=神仏に物を備えること
*11:げんちょ=陰暦十月上の亥の日の亥の刻に亥の子餅を食べる行事。万病をのぞくまじない
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江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政六年の記録・第四回です。
寛政六年(1794年)の記録・其の四
ロシアから帰還した大黒屋光大夫と磯吉の上京に伴って、去年の冬から江戸に出向いていた医師の今井元安(大畑の人)が、多少のロシア語が話せたため、今年の春、江戸の南部藩の桜田屋敷に召し出され、五人扶持(ふち)の役医に登用された。
しかしその後、訴えがあり、以前無断で松前に渡航していたことが明らかになり、寛政十二年(1800年)役医の職を解かれ、無役の医師になった。
水夫の幸助という者が江戸雇いの船の乗組員として大畑沖に来ていたが、逮捕され江戸に送られた。
監察の赤沢半蔵、役人の中村理右衛門など南部藩と代官所の役人が十二人もやって来た。
聞くところによると、伊豆の海岸で船の荷物を詐取したくせ者であった。
台風のため、奥内、中野沢に被害が出て義倉の稗を三石貸し出した。
六部*1のルールを破ったとして、合議の掟に従って修験の笈*2を道端で燃やすことになったらしい。
しかし、火に関わることなので、我が検断所に一応届け出があった。
「仲間うちの掟とはいえ、やはり町なかで燃やすのは危ないので、郊外の原っぱや洲浜で行うように、また修験の掟に関しては、当検断所は関わりなし。」
と告げると、笈を焼き捨てることもなく、どこかへ消えてしまった。
この六部ども、いったいどんなたくらみがあって訴え出たものか。
松前候が江戸参勤の帰路、当南部藩で鷹を放し、また木崎野牧場を見て、佐井湊から松前に渡りたいと申し出た。
しかし、佐井までの行程の半分も来ないうち、南部藩の宿駅で疲れ切ってしまい、また、いわゆる参勤交代の本筋のルートではないのでこれらは中止となった。
へつづく
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江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政六年の記録その3です。
寛政六年(1794年)の記録・其の参
幕府御用船政徳丸は三年前の亥年(寛政三年)に初めて朱塗りの御用船になった。
そして今年大畑に入湊する旨の御用達が届いた。その内容は
「幕府御用船政徳丸の御船手*1向井将監組の水主同心を海船修行のため差し遣わすので、どこの湊においても入湊や出帆の際に支障のないよう曳(ひき)舟を差し出すこと。
かつまた、積荷の売買については商人たちと同じように水主同心組頭格の長谷川仲右衛門(大畑出身)が執り行うこと。
その際、入湊税は不要とする。
口銭*2はいささかの相違もなく支払う。
その旨を承知せよ。」
というものだった。
御用船が、「添い触れ」(往来切手)通りに、材木や鰯糟(ほしか)の買い入れに参入しようとした。
そのため、その対応について田名部代官所へ相談に出向いた。
「日常的に行われることではないので、できるだけ自然に取り扱い、行き違いが起こり、容易ならざる事態にならないように処理せよ。できるだけ積荷を取り扱わないという方法もある」ということだった。
しかし、積荷が滞り出したため、御用船の役人が
「代官所に直談判する。代官に合わせろ」
との剣幕だった。
黙って見過ごすわけにいかず、急ぎ船を離れて、先回りして代官所に駆けつけ、事の次第を報告した。
「代官所に事が及ばないよう、すぐに駆け戻り、船役人を途中から引きかえさせよ」との指示だった。
ただただ慌ただしく、事が切迫しており、息せき切って駆け戻った。
鶴沢山の崎のあたりで彼らと出会った。
きちんと事の処理ができなければ、宿老の職もこれまでと覚悟して、精一杯説明し納得させた。
長谷川仲右衛門は、以前、我々の管理下にあった(大畑の)人間だったし、岡本綱五郎も面識があった。
事態は困難極まりなかったが、何とか穏やかに帰路につくことができた。
諸外国のことなど話題に語り合いながらしながら、暮れ頃、大畑に立ち戻った。
へつづく
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江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政六年の記録つづきです。
寛政六年(1794年)の記録・其の弐
「紅毛(こうもう)雑記」、「紅毛新話」が大畑に伝えられた。
この本に世界七不思議が書かれている。
長さ八十四丈(252㍍)、広さ三十一丈(93㍍)、船底から帆柱の上まで八十五丈(245㍍)。
船内には兵士の陣地や工匠たちの部屋、荘厳な遊戯場、浴室、庭園もあるという。泉水には魚が泳ぎ、風車のウスで粉を挽き食糧にする。
船の側面は鉄で覆いヘサキには望楼を建て重さ三百斤(180㌔)の石を撃つ大砲をすえつけ、長さ三丈六尺(10㍍強)の矢を飛ばす。
石弓は六十丈(180㍍)まで飛ぶというふうに、あらゆる物を備え、隋の煬帝(ようだい)が汴水*1に浮かべていた龍船もこれに及ばないという。
第二は、大英帝国のロンドン橋。三百六十余間(648㍍)の石橋である。
第三は、霊鷲山(ぎじゃくっせん)を登ること三十六町(約4㌔)、道を十二里(48㌔)進むと、千間(1.8㌔)四方の石の堂、ギザのピラミッドがある。
第四は、爾馬尼*2にアラビアの石を用いて四十四丈(132㍍)の塔を建て、山の頂から石の橋を渡して宮殿や楼閣を築いた(?)。
第五は、アナトリア*3からトルコにかけて海を隔て、石橋をかけ渡した。(?)
この大像は海中の二つの台座の上に足を開いて立ち、大きな船はこの像の股の下を艀(はしけ)で通る。
像は左手に燭台を持ち、足の内部が螺旋階段になっており、ここを登って灯りをともす。
右手には須太府と呼ばれる、笏(しゃく)のような武器を持つ。
像の体内には大きな石を納めて錘(おもり)としている。
この石、両手をもっても抱えきれないほど大きいものである。
人夫千人がかりで十二年経て完成したものだという。
第七は、アマゾネ(アルテミス)がエフェソス(現在のトルコ)を攻め落とした時、その地に建てた高さ四十四丈(132㍍)、幅二十一丈(63㍍)のアルテミス神殿。
その内側に白い石柱百五十本。高さ七丈(21㍍)の像がある。
四つ門、白い石橋、正門前に瓏石の神像。
二百二年かかって完成したものである。
しかし、これらの石橋や大きな像は、清の康煕帝の時代(1661~1722)、風や波地震などの大災害により完全に破壊され原形をとどめていない。
このほかに、アレキサンダー大王がアフリカ諸国を侵攻したときに建設したアレクサンドリアの大灯台。
また、アレキサンダー大王はペルシャ帝国を攻めるため黒海の港ダーダネルス海峡に船を並べてその上に板を張り土を盛って、一千余歩の長い橋をかけ二百三十万の軍勢で襲来し、ペルシャに完勝したことをケンペルの「鎖国論」には記される。
へつづく
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寛政六年(1794年)の記録・其の壱
大坂の赤石から無染媼という書家が来た。
根室に大黒屋光大夫を乗せてロシア船が入港した折、江戸幕府から松前に派遣された御普請役の田辺安蔵が、北通りへ「馬を借り上げたい」とやって来たが、
花巻の画工・小野周徳がしばらく滞在した。
俳諧詩歌集「星石賦」を届けてくれた。
菅江真澄著「奥の冬ごもり」
寛政六年十月一日(石持にて)
石持てふ山里に祭る石神にもうでんとて出(い)づ。
谷(やち)なかの道、日頃の雨にぬかり行きがたしとて、目名村より鹿橋(ししばし)を経て、そがい(後方)を行く道あり。
濃きも薄きも、情け深う染めつる色のおかしう分け入れば、里近き松山にかん籬*2あり。
母衣埼明神(ほろさきみょうじん)と唱え奉る。
この村は、大利と言える浜館(はまやかた)の東(ひんがし)に在る伊奈崎より、昔、ここに移りて、その頃に、その辺より神をもうつし奉りしとなん。
この広前*3にながめて(和歌を詠ずる)奉る。
すむ民を猶(なお)や守らん
秋ごとにみのる田面(たのも)の保呂(ほろ)埼の神
畑中誰(た)れとかやが屋の尻なる、刈り上げし粟生*4の中に、子牛の臥せるが如き岩あり。
その岩のつら(表面)より小石生み出づるは、(宮城県)栗原郡七の杜の一つに、彦八井耳命をまつり奉るという、遠流志別石神と名づけし石に同じ。
この石なご(小石)、一つ、二つ、つと(さっと)拾いて、
生み出づるさざれ(小石)も岩も栄行く
末(すえ)守りませ
石持の神
ある優婆塞(うばそく)、いかにぞや、いわれなき神にさえ幣(ぬさ)取りいただき祭るはと言えるに、
ちはやぶる神のみさかに麻(ぬさ)まつり
祝う命は
母(おも)父がため
てふ歌の如といらえ(答える)つれば、うち笑みて去りき。
見るがうちに四方八方空暗く、一通り雨ふり過ぎぬれば、主(あるじ)のとうめ(老女)、泊りねとて宿貸したり。
へつづく
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ロボワル再チャレンジ8
どうも、しょうさんです。
さて、ロボワルのカタチが決まったところで、
基本的なボディカラーをもう一度考え直さなきゃなぁと思いまして、
最初のコレから↑
こうしました。↑
コレを基準に色を塗っていこうと思います。
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