ロボワル再チャレンジ7
どうも、しょうさんです。
チョットわかりずらいですが、
ロボワルのボディとヘッドを修正ました。
ヨシ!色を塗るぞ‼
カマキリのたまご
どうも、しょうさんです。
弟の昆虫採集エピソードを漫画にしてみました。
NANBUとTSUGARU
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
ウチのブログのパターンとして、源さんをやった後、何個かブレイクを挟んで、よもぎたむらができるまでシリーズに入るのですが、正直なところ、よもぎたむらができるまでの次の時代の流れがまとまっておりません。
何故か?
青森が特殊すぎて順番を整理するのに時間がかかっております。
問題は南部と津軽の関係というところです。
最初は蓬田村の村史などを見て、(ああこれだったら、蓬田村、大畑町を古代から歴史を追っていけばたどり着けて楽しくできるかな?)と簡単に思ったものですが、いろいろと歴史を調べて行くと、(忘れていたわけではありませんが)現在にもあるシガラミ、南部と津軽の問題にブチあたりました。
それを絡めるのには、いろいろと問題もありますし、それぞれの主張というものが見えてきたとき、「これはハンパには紹介できないぞ!」となったわけです。
んで、一番の問題が、その双方に絡めてくる父ちゃんの未来の蓬田村シリーズがあるわけです。
かなり悩んでおります。
なので、もうしばらく「よもぎたむらができるまで」に時間をください。
(僕たちが)面白いと思った内容で進めていきたいと思っております。
父ちゃんは
「今までの話はあくまで基礎知識であって、これからが本題だ。」
と言っております。
なので、
「よもぎたむらができるまで」シリーズを心待ちしておられる方々(何人いるかわかりませんが)もうしばらくお待ちください。
源さんが行く61
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政五年の事件・ラクスマンの来航に関する資料編です。
資料編①松前の日露会談進展せず。ラクスマンに長崎回路を要請
六月二十七日、前年、漂流民大黒屋光大夫らを伴って根室に来航したロシアの特使ラクスマン(28歳)と、幕府派遣の目付・石川忠房(39歳)、村上大學(21歳)による三度目の会談が、松前で行われた。
鎖国後初の通商・外交を求める使節だが、外交交渉の窓口である長崎への回路を主張する老中・松平定信の意見により、 長崎への入港許可証を交付したにとどまった。
ラクスマンは来航以来、十か月近くこの会談のため根室で待機していた。
第一回目の会談は六月二十一日、松前藩の浜屋敷において行われ、二十四日の第二回目ではラクスマンがシベリア提督の公文書を手渡し、同時に遭難船員の引き取りを要請。
日本側は長崎以外の地での交渉は応じられないと伝えるが、船員の引き取りは承諾した。
三度目の会談でも幕府は姿勢を変えることなく、再度長崎への廻船を求めた。
六月三十日、ラクスマンは不本意ではあるが一応成果を上げたとして、長崎へ向かうことなく帰国した。
大黒屋光大夫、磯吉の二人は九月十八日、江戸城の将軍の面前でロシア事情について取り調べを受け、その体験談は翌年、蘭医の桂川甫周により「北槎聞略」(ほくさぶんりゃく)としてまとめられた。
【日本全史より】
資料編②菅江真澄著「遊覧記」
ラクスマンの来航に関連して、菅江真澄は、下北で見聞したことを詳しく遊覧記の中に記録しています。
菅江は寛政四年十月、四年余りも滞在した北海道を去り、奥戸に渡っています。
北海道を去る前日、根室に寄港したロシア船が日本漂流者を乗せている噂を耳にしたことを記し、また、あの多賀丸漂流者の孫がその船に乗っていると佐井ではみんなが話していたと「牧の冬がれ」に書いています。
そして翌年のこの年、恐山の湯治場で岩屋沖に碇泊したロシア船の話を聞いたこと、下北の海辺視察に来た江戸幕府の要人たちを易国間で迎えた話なども記録しています。
◇寛政五年六月七日(恐山にて)
里より人の来て語るを聞けば、去年より厚岸の磯辺なるネモロ(根室)というところに在りし、カムサッカのほとりなるロシア人、こたび、召しあればとて松前の福山の湊に行くとて、エトモ(室蘭)が崎より乗り出して、霧(モヤ)深ければ船道に漕ぎ迷い、この南部の岩屋の浦に寄せて、童(わらわ)の居るにこと問うに、
「あなおそろし、たけ高く姿 異なる者来し」
とて叫ぶをいぶかり、浦の長(おさ)、もの書き(書記)など海辺に下りて問えば、日の本の詞(ことば)を、さへぐように(聞き取りにくい話し方)もの言うあり。
【菅江真澄/牧の冬がれ】
以上、ラクスマンの来航に関する資料編でした。
そりゃ霧の中から船に乗った外国人が現れたら、子供じゃなくてもびっくりしますわ。
そんなわけで、次回からは寛政六年の記録に入ります。
へつづく
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原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政五年の記録・ラクスマンの話の続きになります。
寛政五年(1793年)の記録・其の四
松前に出向いていた方々は、その後、三厩に渡り、そこから(大畑にも)やってきた。
幕府の御目付の石川将監忠房様一行の二十三人は菊地新右衛門の屋敷に宿をとり、西丸御目付の村上大學義礼様一行の二十一人は菊地与左衛門の屋敷に宿をとった。
御徒目付の松田十右衛門と岩瀬直右衛門、御普請役の蓮見伴七郎、小人目付の草田川伝治郎、寺沢治部左衛門、太田彦兵衛など総勢六十二人。南部藩監察の毛馬内荘助ら二十二人、勘定鎮台の大巻勇助ら十八人。代官の立花万右衛門と野辺友右衛門ら十五人、本科(医師)の小寺玄仲、鍼科・外科十三人、川警護、持送吏監ら二十一人。火防・人馬割担当十五人、総計およそ百七十人が野辺地から中野沢、脇野沢、牛滝、佐井と海岸視察に入った。
そのため、大畑川には手すり付きの仮橋を渡すことになった。
尻屋。白糠を通り、九月中旬に七戸方面に向かった。
ところで、市中通覧(大畑町の視察)の折、我ら町役もお供をした。
湊に抜ける道にさしかかった時、後ろの方から回ってきた尺牘*1を受け取り、すぐさま封を切り、開いてから、よく見ると、お供の者が開いてはいけない文面だったため驚き、うろたえた。
箱の上書きをよく見ると、代官から南部藩勘定鎮台への手紙だった。
もう一度封をし直して上呈した。
そう言えばこの頃、湧館に陣を築くべきかどうかと、湊から坂を登って御覧になったという噂が流れていた。
戸数、人別、船数、牛馬、石高全体で五千石の山海の図面を作成。
津軽の深浦通りから野辺地にかけてのものもあったらしい。
ロシアの南下で国防に不安の多い時節なので、翅つばさ=鳥が虚空で迷わぬように書かれた鳥瞰図*2であるという。
この時期、わが町から猿箇森(さるがもり)へたくさんの人間が接待の手伝いに駆り出された。
また、宿泊する宿の下検分のために八月上旬頃から七回も、変わり代わりに役人がやって来た。
以上、寛政五年の源さんの記録になります。
なんかイベントを1回やるだけで大変なのに、
数か月間も変わり代わり来られたら
いや~、町の人たちも大変だったろうなぁ。
盆と正月がいっぺんに来るってのは、まさにこんなことでしょうね。
さて、次回はそのラクスマンの来航をまた別の角度で原始謾筆風土年表・資料から紹介してみたいと思います。
つづく
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政五年の記録の続き、それからのラクスマンの話になります。
寛政五年(1793年)の記録・其の参
去年(寛政四年)から根室に滞在していたロシア人(ラクスマン)たちが(二艘の)船で箱館に向かうことになり、根室を出航した。
(二艘のうちの一艘が航路を外れて)東通村岩谷部落の沖に仮碇泊した。
そして「水を補給したい」とボートで陸に上がり密かに一晩を過ごし、翌朝早くにここを出航し、目的地の箱館へ入った。
(このロシア船への対応のために)江戸幕府から御目付三百石の石川将監忠房と西丸(にしのまる)目付千三百石の村上大學義礼の主従五十人ずつ。また、御徒(おかち)目付の後藤十治郎、岩瀬直右衛門、松田十右衛門、さらに去年から箱館に出向いている二人と合わせて主従五人ずつ。他に御普請役や御小人目付の主従二人、三人ずつと、総計二百人が松前に渡った。
南部藩からは梁田(やなた)荘右衛門、桐生木右衛門、赤貝治郎右衛門、玉山貞右衛門、伊藤処左衛門、蟇目(ひきめ)茂右衛門、毛馬内、佐馬内、久慈らの総勢三百人。
津軽藩からも弱冠*1剛力の山田強太郎、斥候*2の野呂登ら二百人が、松前藩に加勢しようと、三厩から北海道に渡り松前城府に馳せ参じた。
ロシア人たちは、箱館から陸路を松前に向かい、書翰(しょかん)とラシャ*3、ビロード、猩々緋*4、甘藷*5、等を幕府に献上した。
応対は六月二十六、七、八日の三日間行われた。
信牌*6
「爾(なんじ)らに流す旨を承諾して長崎に至らんといえども、キリシタンの教えは我が国の大禁なり。
その義および器物書冊をも持ち渡すなかれ。
必ず害せらるることならん。
この旨よく悟道*7して長崎に至り、この子細、告訴すべし。
猶(なお)研究して上陸を許すべきなり。
それがためこの帳を与ふる事、しか也。
両監察 姓名 花押 」
我が国(幕府)からは、八貫目の薙刀(なぎなた)二振(ふたふり)、米三百俵。諸家(松前藩、南部藩、津軽藩)からは麦俵を贈与した。
つづく
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江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政五年の記録の続きになります。
寛政五年(1793年)の記録・其の弐
その間合いの話であるが、八甲田の材木場の支配人の能登屋長四郎は性格がせっかちで、組の人足たちへの詰めが甘く、何事も後手後手になりやすかった。
そのため、ここを担当していた者がこの状況に苛立って、
「バカっ早い長四郎めが」
と悪口を言い放ったとたん、長四郎の親がやってくるのが見えた。
とっさに
「この長四郎殿は仏様の生まれ変わり」とごまかしたと…。
ところで八甲田は、比叡山と京都の愛宕山を合わせたような高い山なので、春の堅雪(かたゆき)に乗じて山のてっぺんから下ると、六、七十里*1離れた南部方面の街道へも一日余りで出るという。
1584年の天正の役*2の時、越中(富山県)の佐々成政*3が遠州(静岡県)浜松の徳川家康に援軍の求めで、立山剣岳から堅雪に乗って一気に駆け下り、六、七十里隔てた信州松本へ一日半で到着した。これを更々(さらさら)越えと称して世に伝える。
異国船望遠局を佐井にも設置した。
これは、除雌馬*5と言われる処置で、十四、五年ごとに行われる。
大間の牧では、元文(1736~41)の頃までは駿馬*6が生産された。
その頃の隆盛はどこに行ったのか、今では他の牧と大して違わない。
資料「むつ市史・民族編」
奥戸(おこっぺ)野は寛永十六年(1639)、大間野は正保三年(1648)の再興で両牧とも百匹ずつの馬を放していた。
秋霜の候に捕えて村々へ預け、春草の萌え出るのを待って牧に放した。
秋の御野捕りに勢子*7の人数を村々に割り当てた。
大間、奥戸の藩牧の他にも、村々において民牧が行われ、南部藩では民馬改良のため村々に種馬を貸しつけていた。
これら民間飼育の馬は二歳の秋、競り市に出し、良馬として売れた時は代金のうち一両は飼い主に下されたが、その余りは藩に収め、種馬の貸付、その他の諸経費にあてた。
二歳競り市の制度は、寛文・延宝(1661~80)の頃から行われ、例年、田名部から始まって野辺地、三戸、五戸と南に下るしきたりだった。
その頃の田名部通の産馬は年間三百頭前後。
メス馬は駄馬と称し四歳になれば売買できたので、民間では駄馬が生まれると喜んだ。
へつづく
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政五年(1793年) 源さんは46歳になられました。
宿老の仕事に精を出しております。
寛政五年(1793年)の記録・其の壱
大安寺の禅堂が再建された。
額は江戸の得水の書で、阿吽(あうん)の二王は薬師堂から移された。
山の画像は、明和の頃(1764~72)に玉川重左衛門 から寄進された。
渋民*3から来た菊地治助が、長峯の木の生え際にシメジを発見した。
これによく似たものがあってシメジより細く赤みを帯びるものは、毒キノコである。
軸が細く、裏側が黄色っぽいものは食べられるし、おいしい。
木野部、正津川、下風呂、易国間、大間、尻屋、尻労の七か所の浜に鯨が漂着したのは、一月から三月までのこと。
湊村の浜にも鯨が漂着した。
ジャコウネズミ*5は長崎と鹿児島にいると聞くが、今年、砂子又でジャコウネズミの糞が見つかった。
函館の大森の辺りから将来したものか。
麝香草*6はヨーロッパにあるものだと思っていた。
奥薬研の二階滝の蛭子(えびす)石の辺りで麝香猫*7の糞らしいものが見つかったという。
湊村の浜に常夜灯が設置され、灯りがともされてから既に数年経ち、まだ続いている。
その費用は船ごとに割り当てになるが、そのやり方は今ではみんなに受け入れられている。そこで、ヤグラをもっと高くしようということになり、実際そうなったのだが、町の人々は火事の火元になりはしないかと恐れた。
しかし、その場所については沖の船頭、水夫たちからよく見えるだけでなく、艀(はしけ)や浜辺の船からもよく見えると評判が良い。
へつづく
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父親像?
どうも、しょうさんです。
未来の蓬田村シリーズの漫画をひとまず描き終えて、予感はしていましたが、
ヤッパリ、微妙に漫画ロスになっております。
そんな心境で、あることを思いました。
父親ってこんなんでいいんだっけ?
みなさんにも、理想の親のカタチがあると思います。
近所に住む、バリバリの行動派の親御さんだったり、
テレビで見かける自由奔放に育てているご両親だったり、
よく本屋で見かける理想の親を文章にして本にしている方だったり、
ネットで話題の…だったり。
でもやはり身近で理想なのは、一般的には自分の親であると思います。
私も結局は自分の親を基準に子育てを考えています。
でもあまりにも現代と自分の時代、はたまた自分の親の時代は感覚が違いすぎるんです。
私のオヤジの時代はテレビが出てきたばかりの時代で、まだ外で友達と遊んだり、自分で楽しいことを見つけて遊ぶ時代でした。
私達の時代は、生まれた時からすでにテレビは当たり前にあって、いろんな楽しみがテレビの中にあって、「今日はアレが見たいから遊べない。」という断りの理由も普通になっていました。
流行はテレビから得られる時代でした。
個人的には、ウルトラマンや仮面ライダーにあこがれて、漫才ブームがあり、ガンダム世代であり、MTVにどっぷり浸かってました。
やがてファミコンブームがきて、ドラクエだ、ファミスタだとゲーム三昧。
学校帰りに友達の家に集まってファミスタかなんかのリーグ戦をしたりして、週末を楽しんでいました。
高校を卒業した頃にダウンタウンが出てきて、松本人志信者になりました。
仕事をして、今ではなんとか家族を養っていますが、自分の時間はたいして昔と変わりません。
そんな父親です。
最近だと、仕事から帰ってくると、ほとんどテレビは見ませんが、その代わりにパソコンにばかり向かって、ブログを書いたり、漫画を描いたりしているわけです。
息子のゲンの世代はどうか?
ゲンが産まれる前後の頃に近所の子供たちが外で集まってDSかなんかのゲームをやってるのを見て、自分の子供は絶対こんな風に育てないと思ったものです。
それが今じゃ、スマホを片手に、オンラインで友達と通信しながら、Switchを楽しんでいるわけです。
わざわざ友達の家に出かけていかなくても、いっしょにオンラインでゲームができる時代になってしまったんですよね。
なんだったら勉強だって、スマホで簡単に友達と教えあいながらやってるわけです。
(そりゃゲーム依存も問題になる時代ですわ。)
わかるようでわからない時代です。
欲しい情報は、私の時代よりも100倍以上速く手に入れることができて、すぐに友達と共有できるようになりました。そしてその情報をみんなで楽しんでいます。
私は自分で見つけたロックヒーローなどは、友達に知られるだけで、ふてくされたものです。
私のオヤジはどうだったか?
仕事から帰ってくると趣味の庭いじりばかりしてましたね。
オヤジも変わんねぇじゃねえかよ!
父親ってそんなもんなのですかね?
なんか考えるのがめんどくさくなってきました。
とにかく私は
ブログをやってて、漫画も描くし、粘土でいろいろ作るし、ゲームもするし、
お笑いが好きな、そこら辺にいる普通のオヤジです。
漫画ロスからくるボヤキでした。