源さんが行く58
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政五年の記録の続きになります。
寛政五年(1793年)の記録・其の弐
その間合いの話であるが、八甲田の材木場の支配人の能登屋長四郎は性格がせっかちで、組の人足たちへの詰めが甘く、何事も後手後手になりやすかった。
そのため、ここを担当していた者がこの状況に苛立って、
「バカっ早い長四郎めが」
と悪口を言い放ったとたん、長四郎の親がやってくるのが見えた。
とっさに
「この長四郎殿は仏様の生まれ変わり」とごまかしたと…。
ところで八甲田は、比叡山と京都の愛宕山を合わせたような高い山なので、春の堅雪(かたゆき)に乗じて山のてっぺんから下ると、六、七十里*1離れた南部方面の街道へも一日余りで出るという。
1584年の天正の役*2の時、越中(富山県)の佐々成政*3が遠州(静岡県)浜松の徳川家康に援軍の求めで、立山剣岳から堅雪に乗って一気に駆け下り、六、七十里隔てた信州松本へ一日半で到着した。これを更々(さらさら)越えと称して世に伝える。
異国船望遠局を佐井にも設置した。
これは、除雌馬*5と言われる処置で、十四、五年ごとに行われる。
大間の牧では、元文(1736~41)の頃までは駿馬*6が生産された。
その頃の隆盛はどこに行ったのか、今では他の牧と大して違わない。
資料「むつ市史・民族編」
奥戸(おこっぺ)野は寛永十六年(1639)、大間野は正保三年(1648)の再興で両牧とも百匹ずつの馬を放していた。
秋霜の候に捕えて村々へ預け、春草の萌え出るのを待って牧に放した。
秋の御野捕りに勢子*7の人数を村々に割り当てた。
大間、奥戸の藩牧の他にも、村々において民牧が行われ、南部藩では民馬改良のため村々に種馬を貸しつけていた。
これら民間飼育の馬は二歳の秋、競り市に出し、良馬として売れた時は代金のうち一両は飼い主に下されたが、その余りは藩に収め、種馬の貸付、その他の諸経費にあてた。
二歳競り市の制度は、寛文・延宝(1661~80)の頃から行われ、例年、田名部から始まって野辺地、三戸、五戸と南に下るしきたりだった。
その頃の田名部通の産馬は年間三百頭前後。
メス馬は駄馬と称し四歳になれば売買できたので、民間では駄馬が生まれると喜んだ。
へつづく
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