源さんが行く144
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和元年の記録その5になります。
享和元年(1801)の記録・其の伍
享保十六年(1731)、防火対策の火除け地として空き地にした宝国寺門前の裏手、新町東側の、半屋敷*1に、安永元年(1772)に間口二間(3.6㍍)の家を建てた者がいた。
今年になって、間口一軒分を宝国寺から買い取り、家を建て増し、その裏に倉を建てた。
その倉が出来てから本町から宝国寺裏の方へ十間(18㍍)程進むと、不思議なこだまが聞こえるようになった。
近江の蒲生に鸚鵡石(おうむいし)と呼ばれるものがあり、伊勢の志摩半島には新島・恵利・丹生の三ヵ所にそれがあって、その音は伊勢神宮にも届くという。
越膳の敦賀の言葉石は高さ十三間(23㍍余)、横二十間(36㍍)、そのこだまは十五、六間(27㍍余)先まで聞こえるらしい。
これは明和二年(1765)木材の切り出し作業の時に発見されたものだ。
会津には「たのもう」と声をかけると、「どうれ」と答える石があるらしい。
何を言っても「どうれ」と響くということだろうか。
それじゃあ、鸚鵡じゃなく九官鳥だ。
■七月、天道御料地(皇室領)で百姓一揆が起こり、代官を傷つけ尾花沢の陣屋を襲った。
山形の秋元家では三人の使者を出して一揆の勃発を隣国に知らせようとしたが、笹峠で使者たちは殺されてしまった。
一揆を起こした側にも死者が出た。
その後、一揆の連中は古い城跡にたてこもった。
仙台藩から二手、二千五百人の兵が投入されて八月四日投降した。
幕府御用船の如神丸を昨年冬から奥戸の喜伝治が建造し、今年の春、奥戸から出帆した。
この頃の幕府御用船は四本の帆を持つ総櫓である。
■幕臣の小林新五郎が江戸へ戻った。
■幕府御雇いの嶋早之丞が室蘭の浜で自殺した。
大利で子供と狐を一緒に生んだ女がいた。
その時の女の子は文化年間の今も元気に生きている。
八戸栄一が八橋検校の琴の曲「九段の調べ」をみごとに演奏した。
稲光がしきりにした。
そのたび真昼のように窓はもちろんのこと、家の隙間から閃光が入り込んだ。
夜の暗闇と稲光が交互に襲う恐怖の夜だった。
へつづく
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*1:屋敷一軒分の半分の土地