源さんが行く59
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政五年の記録の続き、それからのラクスマンの話になります。
寛政五年(1793年)の記録・其の参
去年(寛政四年)から根室に滞在していたロシア人(ラクスマン)たちが(二艘の)船で箱館に向かうことになり、根室を出航した。
(二艘のうちの一艘が航路を外れて)東通村岩谷部落の沖に仮碇泊した。
そして「水を補給したい」とボートで陸に上がり密かに一晩を過ごし、翌朝早くにここを出航し、目的地の箱館へ入った。
(このロシア船への対応のために)江戸幕府から御目付三百石の石川将監忠房と西丸(にしのまる)目付千三百石の村上大學義礼の主従五十人ずつ。また、御徒(おかち)目付の後藤十治郎、岩瀬直右衛門、松田十右衛門、さらに去年から箱館に出向いている二人と合わせて主従五人ずつ。他に御普請役や御小人目付の主従二人、三人ずつと、総計二百人が松前に渡った。
南部藩からは梁田(やなた)荘右衛門、桐生木右衛門、赤貝治郎右衛門、玉山貞右衛門、伊藤処左衛門、蟇目(ひきめ)茂右衛門、毛馬内、佐馬内、久慈らの総勢三百人。
津軽藩からも弱冠*1剛力の山田強太郎、斥候*2の野呂登ら二百人が、松前藩に加勢しようと、三厩から北海道に渡り松前城府に馳せ参じた。
ロシア人たちは、箱館から陸路を松前に向かい、書翰(しょかん)とラシャ*3、ビロード、猩々緋*4、甘藷*5、等を幕府に献上した。
応対は六月二十六、七、八日の三日間行われた。
信牌*6
「爾(なんじ)らに流す旨を承諾して長崎に至らんといえども、キリシタンの教えは我が国の大禁なり。
その義および器物書冊をも持ち渡すなかれ。
必ず害せらるることならん。
この旨よく悟道*7して長崎に至り、この子細、告訴すべし。
猶(なお)研究して上陸を許すべきなり。
それがためこの帳を与ふる事、しか也。
両監察 姓名 花押 」
我が国(幕府)からは、八貫目の薙刀(なぎなた)二振(ふたふり)、米三百俵。諸家(松前藩、南部藩、津軽藩)からは麦俵を贈与した。
つづく
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