おおはたまちができるまで~南部のはなし~53
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回からは、南北朝のみちのくの状況を紹介していきます。
みちのくの新政01
国府政治の復活01
北条氏が滅んだので、約百五十年続いた鎌倉幕府の時代が終わり、再び天皇親政の世となります。
元弘三年(1333)11月ごろ、すでに真冬の東北に素晴らしく立派な行列の一行が白河の関を越えてやってきました。
先頭に立って案内役を務めているのは、その白河の領主・結城宗弘です。
続いて須賀川(福島県岩瀬郡)の領主・二階堂行珍(ぎょうちん)行朝、同じ一族の山城左衛門大夫顕行(あきゆき)、摂津源氏の多田木工助(もくのすけ)貞綱、そしてその後に続いている武将たちの中には、南部師行の顔も見られます。
どの人々も皆美しく装った鎧姿でした。
この武将たちに守られて、中ごろの牛車に揺られているのは、正二位大納言・北畠親房(ちかふさ)に抱かれている、まだ六歳のあどけない義良(のりよし)親王(のちの後村上天皇)です。
その後にはまた親房の子、従三位陸奥守・顕家(当時十六歳)が続き、さらに旅姿も凛々しい公卿達が、馴れない馬に揺られながら続いています。
この人たちは皆これまで南朝復活のために働いてきた、高い位の貴族や武将たちばかりです。
それから一層人々の目をひいたのは、その後に従う女官たちでした。
長い道中とはいえ女官たちはみな薄化粧をし、色とりどりの打掛に指貫*1姿で、市女笠(いちめがさ)をかぶり、こわごわ馬に揺られています。
そのあでやかな姿は東北の人々には、初めて見る貴族たちの道中行列でした。
徒(徒歩)で供をする武士たちも加えると二百人近い大行列です。
この人々こそは、昔遠の朝廷(えんのみかど)と呼ばれた多賀(仙台の東北約20㌖)の国府を再建し、これからみちのくの行政をつかさどる貴族や武士たちの一行であったのです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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*1:さしぬき=はかま