こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~36

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

今回からは、南部氏衰退期のころの鎌倉幕府の情勢を追っていきたいと思います。

 

南部氏の衰退期3

南部氏衰退期の鎌倉情勢

「南部史要」によると、南部氏は第五代宗経のあとは第六代宗行(在位二年)が継ぎ、そのあとは七代祐行、八代政連(まさつら、在位十年)、九代祐政(すけまさ、在位十八年)が継いでいます。

しかしはじめの第五代・宗経のときにはすでに

この時に及び南部家の家運衰え、命令も行われず、京都の大番役(朝廷の警護役)や鎌倉の勤番も絶つに至った。

と書かれています。

どうしてこのようなことになったか事情はわかりませんが、幕府に仕えている者として公務を怠るということは大変なことです。

今で言えば役人が役所に出勤しないのと同じことです。

 

その衰退期中の幕府の執権職は、第七代・北条政村(在位三年)から時宗(十七年)、貞時(十七年)、師時(八年)、宗宣・煕時・基時(計五年)、それから高時(十年)のはじめ頃までです。

特に第八代・時宗のころ(南部氏では第五代・宗経のころ)は、蒙古の襲来などもあったりして、国をあげての多難な時代でした。

そういう時に鎌倉の勤務を怠るということになったら、いったい南部氏は幕府からどのように思われていたのでしょうか。

 

さらにその次の第九代・貞時の時代(南部氏では第七代・祐行)には御内人(みうちびと)と外様(とざま)との戦いが起きています。

いわゆる霜月騒動(または安達氏の乱)といわれているものです。

御内人というのは北条氏に仕える家臣の事で、外様というのは頼朝以来幕府に直接仕えてきた、いわば北条氏とは同格の御家人の事です。

 

次回はその霜月騒動のことをちょっと詳しく追っていきます。

 

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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