おおはたまちができるまで~南部のはなし~37
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
霜月騒動の事情から続けます。
南部氏の衰退期4
南部氏衰退期の鎌倉情勢2
御内人(北条氏に仕える家臣)と外様(北条氏と同格の御家人)の戦い霜月騒動の御家人勢力の中心は安達泰盛(あだちやすもり)で、北条家家臣の中心人物は、第九代・貞時の乳母の夫、平頼盛(たいらのよりもり)でした。
両者ともそれぞれ密かに合戦の準備を進めていましたが、攻撃を仕掛けたのは頼盛側でした。
激戦が行われましたが、結局戦いに勝ったのは北条氏側でした。
冷酷で疑い深い性格の平頼盛は、この時、関係のない者まで大殺戮を行ったといわれています。
この乱は、弘安八年(1285)十一月(霜月)に起きたので霜月騒動とよばれています。
執権・貞時はまだ幼少であったため、この乱の後、幕府の実権を握ったのは、その平頼盛でした。
頼盛が支配をした時代は恐るべき専権と恐怖の時期であったといわれています。
その手先となって働いたのは、頼盛の子・平宗綱、弟の長崎光綱をはじめ、尾藤、小野沢、飯沼、大瀬、工藤の諸氏だといわれています。
この人々は、幕府内で働く各役人の不正や怠慢を厳しく監視し、どんな処置でも取ることができる特権を与えられていたということです。
だから「大番役も鎌倉の勤務もできなかった」と言う南部氏は、おそらくこの監視の目を逃れることはできなかったのでしょう。
時宗のころは内外多事であったから、大目に見られていたとしても、この頼盛支配の時代には、南部氏は何かの処罰を受けたのではないでしょうか。
あるいは糠部の地頭代職や所務代官が大幅に人事交代させられたのもこの時期であったかもしれません。
鎌倉時代の末ころに糠部を管理していた地頭代職は、次のような人々でした。
一戸 工藤四郎左衛門
浅野太郎
横溝六郎三郎
横溝弥五郎
三戸 横溝新五郎
会田四郎五郎
大瀬二郎
五戸 三浦介時継
七戸 工藤右近将監(うこんしょうけん)
結城七郎左衛門尉朝祐(ゆうきざえもんのじょうともすけ)
八戸 工藤左衛門次郎
工藤三郎兵衛尉(さぶろうべえのじょう)
工藤孫四郎
工藤孫二郎
九戸 北条茂時
この人々はみな北条氏とは関係の深い人ばかりです。
特に工藤氏や大瀬氏は、頼盛の手先となって働いた人たちです。
勢いが衰えたばかりでなく、「鎌倉の勤務も怠った」という口実を握られていた南部氏ですから、どのような処分を受けても仕方なかったのでしょう。
光行以来約九十年所領としてきた糠部も、この時に代官職などの役は、御家人の手に渡ってしまったのではないでしょうか。
糠部だけではなく、霜月騒動以後は、急に得宗領が増え、その地頭代職や所務代官も、御家人が多く任命されたということです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
さて次回はこのままおおはたまちができるまでルートのまま
北条氏の滅亡と、いよいよ安東氏の乱に入ってまいります。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~38 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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