こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~16

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南部氏二代目・実光(さねみつ)の話、第五話です。

 

糠部行政の基礎を築いた二代・実光-その5

糠部に栄えた南部氏の一族(1) 

平安時代にはエゾ地と言われていた東北も、鎌倉時代になってからは、情勢が一変しました。

奥州藤原氏の時代には、陸奥・出羽の二国は半ば独立国のようなもので、朝廷の命令も東北にはあまり及びませんでした。

だが鎌倉幕府が開かれてからは、頼朝の御家人たちに、奥羽二国(陸奥と出羽)の各地が領地として与えられ、初めて東北北部も、全国的な政治組織の中に組み入れられることになったのでした。

陸奥の各郡、各村々にも鎌倉武士たちが多くの家臣を率いて入り込むようになりました。

 

光行が平良が崎城を建てて糠部を去ってから、実光が入部するまでは二十七年も経っています。

おそらくその間は、重臣の誰かが代官として、糠部の行政を担当していたのでしょう。

これは糠部に限らず、他の郡でもよくあることでした。

奥州に領地を賜った領主は、たいてい奥州以外のどこかに、自分の本領を持っていました。

つまり奥州の領地は植民地のようなものでした。

そして奥州の領地には一族か家臣の誰かを代官として派遣していたのです。

領主自身は殆ど鎌倉に住み、幕府に勤務したり(鎌倉番役)、また時には京都の護衛役(大番役六ヵ月)を言いつかったりしていました。

実光も同じように多くは鎌倉に居住し、時には本領の甲州南部郷に帰ったりしていたのです。

しかし前述のような事情で、実光が二十余年ぶりに糠部に下向しましたので、領主としてやらなければならない多くの仕事が待っていたに違いありません。

  【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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へつづく 

 

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南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1