おおはたまちができるまで~南部のはなし~17
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南部氏二代目・実光(さねみつ)の話、第六話です。
糠部行政の基礎を築いた二代・実光-その6
糠部に栄えた南部氏の一族(2)
実光はまず(父の遺命*1もあったと思われますが)広い糠部の土地を兄弟たちに分け与えました。
長男の行朝には別に一家を建て、一戸を与えました。
三男の朝清には七戸、四男の宗朝には四戸、五男・行連に九戸を与え、六男・実長には、甲斐の本領のうち、波木井(はきい)・館野・三枚橋を与え、ともに幕府に勤務を許されたようです。
この兄弟たちはそれぞれ、与えられた土地の地名を姓として、その子孫が糠部の各村々に住み、南部氏の支族として繁栄しています。
長男・行朝は一戸彦太郎と称し、一戸氏、長牛氏、平舘氏、堀切氏、近内(ちかない)氏、野田氏、谷内氏、中村氏、荒木田氏の先祖と言われています。
三男・朝清は七戸太郎三郎と称し、七戸氏の先祖で、その分れは久慈氏、藤村氏、野辺地氏、松原氏、摂待(せったい)氏などです。
四男・宗朝は四戸孫四郎と称し、四戸氏の先祖で、その分れは金田一氏、中野氏、櫛引氏、足沢氏などです。
四戸という地名は今はありませんが、五戸町に合併した旧浅田村や名川町、八戸市の八幡地区、南郷村の中野部落あたりまでの細長い地域が、昔の四戸ではないかと言われています。
櫛引八幡宮が別名を四戸八幡宮とも呼ばれたのは、櫛引村が四戸宗朝の領地であったからということです。
五男・行連は九戸五郎と称し、九戸氏の先祖で、その分れは中野氏、高田氏、江刺家氏、姉帯(あねたい)氏、小軽米(こがるまい)氏、坂本氏、上野氏などになっています。
そして六男・実長は、本領のうち波木井・館野・三枚橋を与えられ、波木井氏を名乗りました。
波木井というのは現在の山梨県身延(みのぶ)町付近のことです。
この実長の子孫はその後、糠部の八戸に下り、代々南朝の忠臣として大活躍をします。
だから実長は八戸南部の祖先ということになります。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
以上、一戸から九戸までの地名のルーツと先祖の話でした。
次回は実光が活躍していたころに起きた承久の乱について紹介していきます。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~18 - こめいがねんど
へ つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]
*1:生前の命令