こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~15

 

f:id:komeikanendo:20200402202454j:plain


どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南部氏二代目・実光(さねみつ)の話、第四話です。

 

糠部行政の基礎を築いた二代・実光-その4

和賀氏と南部氏 

岩手県の中部、和賀郡を領地としていた和賀氏もまた、南部氏とは姻戚の関係にありました。

 

和賀氏の初代・義治(よしはる)は、遠光・光行らと同じく頼朝の奥州合戦に参加し、和賀郡に五千余町歩の領地を拝領した人です。

 

その和賀氏の二代目を継いだ忠頼(ただより)は実は頼朝が伊豆に流されていたころの最初の愛人・伊藤祐親(すけちか)の娘との間にできた子でした。

祐親は、この頼朝の子について、平家の探索を恐れ、家来に命じて、川に流して殺させようとしました。

だが、その家来は、哀れに思い、人にやってひそかに育てさせ、和賀義治は、その子を養子に迎えて、和賀氏の二代目としたのです。

つまり和賀忠頼は、頼家実朝とは母違いの兄でした。

 

f:id:komeikanendo:20200403210739j:plain

さてその忠頼の孫にあたる和賀氏の四代目・宗義が、南部家から実光の娘を妻に迎え、その子の忠義が五代目となりました。

だから五代目・忠義は実光の孫にあたり、忠義にとっては南部実光は外祖父(母方の祖父)ということになります。

また和賀氏系図によれば、五代目・忠義の妹が、南部政光(時宗の次男・四代目)の妻となったと伝えられています。

だが政光は「南部史要」によると、文永二年(1265)15歳で亡くなっています。

だから果たして妻を迎えたかどうかはわかりません。

 

いずれにしても、その頃和賀氏と南部氏との間には、このような姻戚関係が結ばれていました。

こういうことは、南部の歴史を考えるうえで、とても重要なことです。

もし実光が奥州に下向しなかったら、おそらく和賀宗義は、実光の娘を妻にするというようなことはなかったでしょう。

だから光行や実光が糠部に下向したということは、南部家の伝承の話だけではないということですね。


 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

おおはたまちができるまで~南部のはなし~16 - こめいがねんど

へ つづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1