おおはたまちができるまで~南部のはなし~15
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南部氏二代目・実光(さねみつ)の話、第四話です。
糠部行政の基礎を築いた二代・実光-その4
和賀氏と南部氏
岩手県の中部、和賀郡を領地としていた和賀氏もまた、南部氏とは姻戚の関係にありました。
和賀氏の初代・義治(よしはる)は、遠光・光行らと同じく頼朝の奥州合戦に参加し、和賀郡に五千余町歩の領地を拝領した人です。
その和賀氏の二代目を継いだ忠頼(ただより)は実は頼朝が伊豆に流されていたころの最初の愛人・伊藤祐親(すけちか)の娘との間にできた子でした。
祐親は、この頼朝の子について、平家の探索を恐れ、家来に命じて、川に流して殺させようとしました。
だが、その家来は、哀れに思い、人にやってひそかに育てさせ、和賀義治は、その子を養子に迎えて、和賀氏の二代目としたのです。
つまり和賀忠頼は、頼家や実朝とは母違いの兄でした。
さてその忠頼の孫にあたる和賀氏の四代目・宗義が、南部家から実光の娘を妻に迎え、その子の忠義が五代目となりました。
だから五代目・忠義は実光の孫にあたり、忠義にとっては南部実光は外祖父(母方の祖父)ということになります。
また和賀氏系図によれば、五代目・忠義の妹が、南部政光(時宗の次男・四代目)の妻となったと伝えられています。
だが政光は「南部史要」によると、文永二年(1265)15歳で亡くなっています。
だから果たして妻を迎えたかどうかはわかりません。
いずれにしても、その頃和賀氏と南部氏との間には、このような姻戚関係が結ばれていました。
こういうことは、南部の歴史を考えるうえで、とても重要なことです。
もし実光が奥州に下向しなかったら、おそらく和賀宗義は、実光の娘を妻にするというようなことはなかったでしょう。
だから光行や実光が糠部に下向したということは、南部家の伝承の話だけではないということですね。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~16 - こめいがねんど
へ つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1