おおはたまちができるまで~南部のはなし~19
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南部氏二代目・実光(さねみつ)の話、第八話です。
糠部行政の基礎を築いた二代・実光-その8
承久の乱と実光(2)
いろいろな南部家の歴史書には(いろいろな説はありますが)、承久二年に八幡宮を勧請したとあります。
すると、そのお宮建築の仕事もあったわけです。
「南部史要」には、この年永福寺を三戸に建立す。ともあります。
お宮やお寺の建設が終わると、当然その落慶式(落成式)も行わなければなりません。
さらに「南部史要」には
実光が糠部に下向してから三年経った貞応元年(1222)四月十五日に滝沢村の八幡宮を櫛引村に遷(うつ)す。と書かれています。
大きな仕事があり過ぎて、実光は恐らく額部を離れることができなかったと思われます。
承久の乱の令旨が下ったのは承久三年の五月十四日です。
そしてこの乱はひと月足らずの六月十五日に終わっています。
糠部にいた実光は、果たしてこの戦に間に合うように鎌倉に駆けつけることができたでしょうか?
鎌倉からの使いが来なければ、あるいは実光はこの乱が起きたことを知らないでいたかもしれません。
「吾妻鏡」には、この乱に加わって功をたてた者や、負傷したり、死んだ者の名が交名状として382名書かれていますが、その中にはもちろん実光の名はありません。
またこの乱で大将軍を命ぜられた伯父の長清や父の従弟・信光は、それぞれ安房守*1や安芸守*2に任ぜられています。
南部氏の当主である実光には、この乱について何の記録もありません。
もし実光がまだ甲斐国にいたとすれば、当然参戦していたと思います。
実光は建長六年(1254)十二月二十五日、鎌倉で亡くなりました。(74歳)
遺骸は、糠部に移して三戸に舞ったということです。
今の三光寺の西側に奥方と並んで墓があります。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~20 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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