源さんが行く102
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
「太閤真顕記」(たいこうしんげんき)第四回です。
寛政十年(1798)の記録「太閤真顕紀」其の四
【秀吉の楠木正成批判】
「―次に楠木正成は赤坂城、天王寺の戦い*1、千破矢(千早)城、飯盛城*2で京軍(後醍醐天皇軍)として数度の武功はあったが、闇々*3と自害してしまった。
これはどう見ても名将の行いとは言い難い。
一族郎党でもって匹夫(一人の男)の働きをしながら、足利直義*4を討ち取ることもできたろう。
合戦の勝ち負けは時の運ゆえ負けても恥にはならないが、策のないのは恥である。
楠木正成最後の合戦ならば、何をおいても戦略を講ずるべきだったのに、大した策も持たなかった。
もし湊川*5を戦場と定めるなら、鳥雲の陣立て*6で待ち伏せたら、足利直義を脅かしもしただろう。西国から集められた民兵たちを分断していたら足利直義を十に八、九は討ち取れたであろう。
楠木正成は最後の一戦がまずいゆえ全国に知れ渡った名将の名に傷がつく。
などと大口をたたくこの秀吉が、もし義経や楠木正成だったら、華々しくいくさの花を咲かせ、夕暮れの入相の鐘も激しい山颪(やまおろし)に変えて、敵を吹き散らしてみせようものを。」
と歯ぎしりしながらおっしゃった。そして四方をキッと見回し、大声で、
「おい、お前ら、〈この秀吉が義経や正成の立場であろうとも、そう容易くは行くまい〉と腹の中で思っているな。顔にそう書いてあるぞ。義経は清和天皇の子孫で、源氏直系の血筋だ。正成も敏達天皇の末流、橘氏の一族で、千騎の大将の旗頭である。
それに比べてこの秀吉は、天下に隠れもなき身分卑しき凡人だ。
それゆえ信長公にお仕えした時は、家来の一人もいない、孤立無援の境涯だった。
しかしそこから、世界に類のない出世をして太政大臣となり、武士の面目、この秀吉に勝る者は誰もおらぬ。お前らが心の中で、秀吉の身の程知らぬ大口と思うは、大間違いだぞ。この国で異国にまで兵を送ったのは、恐れ多くも神功皇后とこの秀吉だけよ」
と座り直し、冷ややかに座の面々を見まわし、
「おぬしら、心に持つ疑いを捨てよ」
とおっしゃった。
お側にいた方々は
「一つひとつ納得することばかり、誰がそら言など」
と、一同はっとひれ伏すのであった。
以上、年末に源さんが聞いた講談師の話「太閤真顕紀」を四回にわたって紹介しました。
(すべてが史実だとは思いませんが)秀吉の名将論が面白かったです。
そしてやはり頭のキレる人だったんだなというのを感じたし、いろんなことを勉強して知識が豊富な人だったという事がわかりました。
さて次回は年が明けて、寛政十一年初めの記録に移ってまいります。
へつづく
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