源さんが行く101
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
「太閤真顕記」(たいこうしんげんき)第三回です。
寛政十年(1798)の記録「太閤真顕紀」其の参
近習*1や御伽*2の者たちが、静かに聞いているからと思ったのだろう。秀吉はさらに続ける。
―「名将と言われる一人が源義経であり、また楠木正成も古今に並びなき名将と言われている。しかし、おれはそうは思わない。そのわけを言おう。」
【秀吉の義経批判】
まず九郎義経は、木曽義仲が数度の合戦に打ち負け、わずかの兵で呻吟*3しているところを討った。
その後、平家を攻め滅ぼし、以降、その名が天下に知れ渡った。
三歳の幼子でも知る平家の悪行やおごり、また神をおそれず、宮廷をも軽んじた行為。それゆえ神仏にも見放され、世の人々の信頼も失せて、木曽義仲ごとき小勢にも平氏は攻め落とされた。
瀬戸内海に漂い、漁師、海士の如く津々浦々に逃げ延びた者たちを討ち取ったからといって、それほど大したことではない。
梶原景時ごときに逆さ櫓(やぐら)の論*4で讒言*5を受けたことは義経の恥である。
いやしくも義経は頼朝の弟、平氏追討の大将軍として軍を率いて西国に向かった身ではないか。梶原景時ごとき家臣郎党に侮(あなど)られるとは…
これ皆、大将の器であるなら、その威厳で押して梶原ごときに一言も言わせぬはずである。
義経が知将ならば、安徳天皇をはじめ、平家をことごとく瀬戸内の海に沈めたその日のうちに梶原親子を討ち滅ぼすべきである。
しかしその機を逃し、ついにはまんまと讒言に陥れられ、鎌倉に入ることさえ出来なかった。腰越*6から追放され、頼朝の放った刺客の土佐坊昌俊(とさのぼう・そうしゅん)ごときに夜討ちをかけられている。
頼朝との意思疎通はとっくに明白だったのに、何ら弁明することなく、うかうかと都に長居して、先を見る目がなかった。
そんなものは名将とは言えない。
義経が知恵の働く大将なら、西国や奥州への院宣*7を申請して諸軍を結集し、急ぎ鎌倉に攻め下る。また伊勢、駿河の勢は奥州へ向かわせ加勢を集めて攻め登らせ、東西から鎌倉に押し入る。
さもなければ、大臣殿(おとどの)父子*8を頼朝に引き渡し、自分は腰越から奥州に下り、藤原秀衡を頼って奥州勢を結集し、鎌倉に押し寄せ、九死に一生をかけて合戦を行うべきである。
そうした場合には勝利もあり得たし、また和睦もあり得て、四国か九州に恩賞として領土が与えられたかもしれぬ。
ただただ従順に待つのみで、事かなわぬと知ってからは身を隠す場所もなく、山伏のまねをして奥州に逃げ下った。
藤原秀衡を頼ったら日を置かずに鎌倉に攻め登るべきなのに、その手立てもせず、高館(たかだち)でのんびり遊び暮らして、百歳に近い秀衡の死後を予測しないとは何事か。智と仁と勇の三つが備わって名将と言えるはずだ。
義経、弁慶ともに勇はあるけれど、智には欠ける。四度もの好機を全く生かせなかったからだ。
へつづく
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