よもぎたむらができるまで37
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
源平合戦に決着がつき、
頼朝が動き出します。
奥州藤原氏・其の十一
そこは五代前の先祖・源頼義が手に入れようとして果たせなかった地です。
頼義にとって陸奥は、軍事力に結びつく資源の宝庫でした。
矢羽根の鷲の羽根、防寒用の毛皮、武器の材料である鉄、刀鍛冶の技術、そして馬がありました。
豊かな資源を持つ東北を傘下にすれば、莫大な軍事力を手に入れられます。
平氏も九州や瀬戸内を掌握して、その資源がバックにあったので勢力を拡大できました。
なので源氏は、とにかく東北を支配下に収めたかったのです。
また、平泉を放っておくと、常に背後を脅かされるという危機感も、頼朝にはありました。
陸奥のような遠い土地に戦争を仕掛けようと、十万二十万の兵を動かすには、食糧や武器の補給のため、その数倍の兵站要員が必要になります。
気に喰わないから今日明日にも攻め込むというわけにはいきません。
準備には五年も十年もかかります。
頼朝としては坂東の軍事力を結集できた時点で一気に仕掛けることが大事でした。
そこでモタついて間を開けてしまうと、平泉にさらに戦力を蓄えられてしまう可能性がありました。
財力は平泉の方が圧倒的にありますから、時が経つにつれて均衡が崩れ、源氏の方が不利になります。
後々のことを考えると、兵士を滅ぼした勢いですぐに一掃してしまわないと、自分たちの政権は続いていかないと見ていたようです。
頼朝と義経の決裂は突然訪れます。
義経が頼朝の命によって平氏との最終決戦の壇ノ浦の海戦で勝利を収め、平氏を壊滅させた直後のことでした。
多くの捕虜を引き連れて義経が都へ凱旋したのは戦からおよそ一年と二か月が過ぎた元暦二年(1185年)四月二十四日のことでした。
それからわずか十日後の五月四日、
頼朝から「勘当する」という通達が義経に届けられます。
全く意味が分かりません。
勘当の理由は頼朝に相談なく法皇の叙位を拝受したことだけに絞られていました。
驚愕した義経は平氏の捕虜を鎌倉に届けるという名目で、鎌倉入りをしようとしますが、目前の腰越(こしごえ)で阻まれます。
無断の任官をした者はもはや臣下ではない。
もし鎌倉に一歩でも踏み込めば敵とみなして斬罪に処すという厳しい対応でした。
義経は涙と怒りを必死でこらえて、頼朝の側近・大江広元へ己の恭順を訴える書状をしたため、兄へのとりなしを懇願しました。
(参考引用文献/高橋克彦「東北・蝦夷の魂」・「炎立つ 光彩楽土」)
へつづく
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