よもぎたむらができるまで39
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
突然訪れた、秀衡の死。
奥州藤原はどうなっていくのか…
奥州藤原氏・其の十三
1187年秋、藤原秀衡、急死-。
「吾妻鏡」*1には、義経を大将軍として仰ぐようにと秀衡が遺言したとあります。
また「玉葉」*2には、泰衡とその異母兄・国衡に、義経の指揮に従うよう言い残したとする記述があります。
頼朝は鎌倉政権を樹立した後、平泉から京都に送られていた貢金を鎌倉を経由して送るように求め、秀衡はこの指示をのまざるを得ませんでした。
泰衡もこれを守って鎌倉政権と朝廷に敵対する意思のないことを示しました。
やがて、頼朝の要求により朝廷から度々、義経追討の命令が平泉に出されるようになります。
翌文治四年(1188)四月の中旬。
泰衡は義経との別れの酒宴を衣川の吉次の館にて開いた。
明日には吉次の先導で義経主従が津軽へ落ち延びることに定まっていた。
この月の末には義経追討の院宣を携えた内裏の勅使と鎌倉の使者が平泉を訪ねるとの知らせが届いていたのである。一行はしばらく滞在する予定であった。
戦が直ぐにはじまる状況であれば義経も泰衡の言葉に頷かなかったであろうが、
頼朝はまたまた奇妙な行動に出ていた。
秀衡の死を知るや間髪を入れずに内裏へ泰衡宛ての義経追討命令を要請しながら、
自身は亡母追善供養のための五重塔建設に着手し、向こう一年間の殺生を禁ずる命令を配下に与えた。
むろん陸奥が義経を奉じて鎌倉に押し寄せればこの限りではないが、とにかく一年の休戦を宣言したに等しかった。
その狙いが軍備の増強にあるのは明白だった。
頼朝は陸奥の覚悟を見抜いて本腰を据えたのである。
もちろん泰衡も承知であった。
しかし、受ける戦しか考えていない陸奥には関わりのない問題であった。
1189年、義経をかくまっている以上は、泰衡も反逆に与する者であると、 頼朝が攻め入る姿勢を見せます。
このため、泰衡は衣川の館に兵を差し向け義経を自害に追い込んだ、と正史にはあります。
義経を殺したことにして、陸奥を戦火から守ろうとしたのでしょう。
しかし、頼朝はなお追及の手を緩めず、平泉は鎌倉幕府との全面戦争に引きずり込まれていきます。
(参考引用文献/高橋克彦「東北・蝦夷の魂」「炎立つ 光彩楽土」)
へつづく
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