こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

よもぎたむらができるまで45

桃太郎トマト使用 マダム農家の手作り とまとけちゃっぷ 5本セット【ケチャップ 青森 あおもり お土産 青森土産 名産 青森県産 青森の味 お買い得 訳あり ランキング ギフト お試し】【RCP】

価格:5,000円
(2019/12/11 23:04時点)
感想(1件)

 

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

源義経の話、奥州藤原編のシメにしたいと思います。

 

奥州藤原氏義経伝-其の四

  「吾妻鏡」には、頼朝軍が奥州藤原軍を滅ぼした後、平泉から現地の行政官をたくさん鎌倉に連れてきて、鎌倉幕府成立の根幹となる仕組みを構築したと書かれています。

百年続いた平泉のシステムをそのまま取り入れたということです。

逆に言えば、鎌倉幕府が成立した時代、坂東の豪族たちは国を動かす官僚制度など持っていなかったということです。

 

もしかしたら、名前を変えた義経が官僚の中にいたのかもしれません。

それはあくまで僕の想像です。

本当に義経は、自刃したのかもしれませんし、

北行伝説にあるように北海道に渡って行ったのかもしれません。

ただある事実は、平泉が源頼朝の手により滅ぼされた。ということです。

 

最後に、奥州藤原編を高橋克彦氏の「東北・蝦夷の魂」の東北を攻める論理の中から

抜粋して締めたいと思います。

 

 田村麻呂に制圧される前から、朝廷は東北に坂東あたりから多くの人々を移らせ、稲作を進める政策を行っていた。

同時に、朝廷に従った蝦夷、いわゆる俘囚と呼ばれる人たちを坂東などに移住させていた。

朝廷も田村麻呂の制圧以降は、蝦夷を刺激しない政策に転じて、そのおかげで十一世紀に安倍貞任が出てくるまで二百数十年ほどの平和が続いた。

 

柵や城が、朝廷の統治領域を広げていくための拠点として設けられた。

しかし、その時そこで暮らしていた蝦夷たちにしてみると、どうして自分たちの土地に勝手に入り込んでくるのか分からない。

金を産出するといっても、自分たちが通貨として使うのではないから関心もない。

何もしていないのに、蝦夷は野蛮だの文化が低いだのと貶められ続けている。

蝦夷には朝廷側の論理は、全くわからなかったろう。

 

阿弖流為らが抵抗し続けたのが黄金を巡る戦いだとすると、前九年合戦は源氏が東北で産出する優れた軍馬を得るための戦いだった。

後三年合戦は、前九年合戦で源頼義が果たせなかった願いを叶えたいという源氏の思いが根底にあった。

百年ほど後に頼朝の平泉制圧が叶い、馬産地として東北の重要性は続いたが、黄金は武士には全く無縁のものだった。

鎌倉時代になるとほとんど金は必要なくなり、需要の低下から産出量が急激に落ち込んだ。

 

東北が攻められた理由はいつも同じではない。

その都度、東北は時代を切り替えていく大きなポイントになっていた。

東北は施政者によって「産物」をどんどん替えられていった。

近代は兵士の供給地になり、現代は電力の供給地とされた。

中央にないものを東北に求める、あるいは東北に負担させるという構図だ。

 

それは鎌倉幕府が東北に米を作らせたことに始まり、東北を米の産地として開発しようとした。だが、土地は広いとはいえ、気候風土が米に向いていない。東北はしばしば飢饉に見舞われ、しだいに貧しい国になったのは、鎌倉幕府の政策によるものだ。

 

鎌倉幕府の方針として米作をさせたのは、東北の経済力を封じ込めるという意味合いもあったのだろう。

奥州藤原氏を滅ぼしてたとしても、その末裔はまだ無数にいる。彼らの相当数を鎌倉幕府の役人として取り込んだとしても、まだまだ潜在的に東北は力を秘めている。

その経済力を壊していくために、どんどん米作に切り換えていった。

 

以上、奥州藤原編でした。

もう何も言いたくありません。

僕の気持ちは高橋克彦氏の文章の中に全てあります。

ひとこと言わせてもらえるなら、

東北人を馬鹿にするな!

 

さて次回からはもっと青森県が近くなり、安東氏関係の話から進められるかな?

f:id:komeikanendo:20191223011248j:plain

未来の蓬田村では25


 

つづく



蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27