おおはたまちができるまで~南部のはなし~6
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回は、源頼朝と南部光行の父・遠光(とおみつ)の関係について紹介していきます。
南部氏の祖先・甲斐源氏/その3
加賀美遠光と大貳局
光行の父である加賀美遠光には、どの書物を調べても、憎しみを受けたというような記録はありません。
かえって文治元年(1185)八月十四日、源氏の武将五名が賞を受け、その中で遠光は信濃守に任ぜられています。
この年に、壇ノ浦の戦いがありましたから、遠光も平家討伐に参加していたと思われます。
それからは信濃守遠光と呼ばれるようになりました。
その後、遠光は御家人の中でも重要な人物とされて、頼朝外出の際には、しばしば隋兵の一人として、行列の中に加えられています。
また文治四年(1187)七月四日
遠光の息女(光行の妹?)が数ある御殿女中の中から選ばれて、頼朝の長男頼家(当時七歳・万寿公)の御付き添い役を仰せつかっています。
そして九月一日に、その遠光の娘は、はじめて頼朝に拝閲*1し、大貳局(だいにのつぼね)という名を命名されます。
建久三年(1192)八月九日
頼朝の次男・実朝*2が誕生し、この時にも大貳局が、ほか二名と共に付き添い役を仰せつかっています。
頼朝は千万公(せんまんぎみ)が可愛くってならなかったようです。
十二月五日には重臣12名を浜の御所に召し出し、自ら千万を抱いて、
「この子のために、将来とも万事世話をしてくれるように。」と
頼みこんだということです。
その12名の中には、信濃守遠光も入っていました。
頼朝はその7年後、正治元年(1199)一月十三日、53歳で亡くなりました。
また、大貳局は21年後の建保元年(1213)に、和田義盛が北条義時に滅ぼされた時、義盛の領地であった秋田県の由利郡を領土として与えられています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
と、三回にわたって南部氏のルーツを探ってみました。
物凄い一族の出身だったことが分かりました。
そして何処までも憎たらしい頼朝。
でも最初に事を起こすということは、このくらい徹底しなければ、 成功できないということを実は頼朝はわかっていたのだろうか?と逆に天才的政治家だったのかもしれないと感じました。
さて次回は、南部氏初代・光行について紹介していきたいと思います。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~7 - こめいがねんど
へつづく
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