おおはたまちができるまで~南部のはなし~5
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南部氏の祖先・甲斐源氏/その2
頼朝と甲斐源氏
頼朝が鎌倉幕府を創設するのには、
甲斐源氏一族が、大きな役割を果たしています。
しかし、頼朝は幕府を創設しても、源氏一族には、その功績にふさわしい待遇をしませんでした。
頼朝は、同じ源氏の中から実力者が出ることを最も警戒していたようです。
そのため、たとえ肉親のものでも遠慮をしませんでした。
頼朝の手にかかって、哀れな最期を遂げたものが多くいます。
義経や、弟・範頼(1193年、些細なことから伊豆の修善寺で殺されます。)がその犠牲者でした。
甲斐一族も警戒されていました。
武田信義が、ありもしない謀反のウワサをたてられますが、誓書*1を入れて許されました。
しかし、その長男・一条忠頼は「勢いを振うの余り、世を乱す噂あり。」という理由で、頼朝から呼び出しを受けて、見ている前で首をはねられてしまいます。
建久四年(1194)には安田義定の子・義資(よしすけ)が、侍女に恋文を送ったのを発見されて、梶原景時親子が告げ口し、さらし首にされます。
それに怒った父・安田義定が、報復しようとしているのがばれてしまい、こちらもさらし首にされてしまいます。
頼朝から信頼されていたのは、武田信光と小笠原長清だけでした。
しかし、信光の兄・兼信や有義は、隠岐に流されたり、行方不明になっています。
ちなみに頼朝から信頼されていた武田信光は信玄の先祖にあたります。
また小笠原長清は、弓馬の礼法を伝え、後の世に武家の礼法「小笠原流」をあみだす元をなした人です。
それでは、光行や父の遠光は、頼朝からどのような扱いを受けていたのでしょうか?
次回はその辺のところを紹介していきます。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~6 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
*1:誓いの書面