こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~8

 

f:id:komeikanendo:20200309233342j:plain


どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南部氏初代・光行についての第2回です。

 

南部氏初代・光行/その2

光行と馬産地糠部

頼朝が鎌倉を出発してから二か月たった文治五年(1189)九月十八日

厨川(くりやかわ)で泰衡の弟・高衡が降伏したことで、奥州平定戦は終わりました。

これまで約百年間、奥州藤原氏の領地であった陸奥と出羽の両国は、すべて頼朝の所領となりました。

頼朝はこの二国を、この度の戦で功のあった部下(御家人)たちに、ほとんど分け与えました。

 

ただし岩手郡以北を誰に与えたかというのは「吾妻鏡」や他の歴史書には書かれていません。

南部家の歴史書では、光行は広大な領地をもらったことになっています。

また一方では、光行は全く糠部をもらっていないという説もあるようですが、その後南部氏の子孫が糠部で繁栄している事実がありますから、今後の資料調査などではっきりした結論が出ることを待ちたいところです。

 

何にしても頼朝は、糠部の処置については、相当慎重に考えたものと思われます。

それは糠部が平安時代の昔から、有名な馬産地だったからです。

馬はその頃、最重要な陸戦の武器でした。

万事抜け目のない頼朝でしたから、武器を供給する糠部に軍馬を育成する適任者の領主を配置しないはずはありません。

甲斐の国には平安時代から多くの国牧(国営牧場)や私牧(民間の牧場)がありました。

光行は、そのなかの南部牧と飯野牧の牧監(牧場の管理責任者)であったと言われています。

だから光行は馬の飼育については、豊かな経験と技術を持っていました。

糠部に配置して軍馬の生産にあたらせるには、光行は最適任の領主であったのです。

 

また頼朝は思慮深い抜け目のない政治家であったので、光行の糠部配置については、

ただ馬産だけでなく、甲斐源氏に対しての一つの牽制策であったのかもしれません。

 

光行が頼朝から信頼されていたかどうかも疑問です。

頼朝や頼綱が外出する際に何回か隋兵として行列に参加している記録は残っていますが、それ以外は何の記録もありません。

 

それというのも頼朝は、これ以上甲斐源氏の勢力が大きくなることを警戒していたのかもしれません。

だから光行については、はるか遠い糠部あたりに領地を与えて、馬産に専念させておく方が安心だったのかもしれません。

 

でも結果としては、その方が光行の子や子孫にとっては、かえって幸せであったようです。

それぞれ糠部の要地を自分の領地として、馬産に励みながら、新しい開拓生活を続けることができたのです。

この頃の甲斐の国には、もうほとんど兄弟や一族に分けてやる土地がなかったというのもありますが…。

 

f:id:komeikanendo:20200312222141j:plain

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

 

おおはたまちができるまで~南部のはなし~9 - こめいがねんど

へつづく

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46