おおはたまちができるまで~南部のはなし~7
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回から数回にわたって南部氏初代・光行について紹介していきます。
南部氏初代・光行/その1
南部三郎光行
光行は遠光の三男で、甲斐の国巨摩郡南部郷で生まれました。
父から、その南部郷を譲られたので、南部三郎光行と名乗りました。
「南部史要」*1によれば、光行は「体格が大きくて、腕力が強く、手槍を上手に使い、強い弓でもよく引いた。」と書かれています。
光行が使った手槍=手鋒(てぼこ)は、軽くて柄の短い手槍だったということです。
敵と接近戦になった時、馬に乗りながら、片手で自由に使うことができる、当時としては新しい優れた武器でした。
槍が戦に使われるようになったのは南北朝ごろからで、室町時代から戦国時代にかけて大いに実用化されました。
ですから、光行が使った手鋒というのは、当時大変な威力を発揮した新しい兵器だったのかもしれません。
この手鋒は家宝として、南部家に代々伝えられ、藩主外出の時は必ず、この槍を行列の中に加えたということです。
文治五年(1189)七月十九日
頼朝は、平泉の藤原泰衡討伐のため、兵を三軍に分け、自らも手元の兵1,000騎を率いて鎌倉を出発しました。
そのなかに甲斐源氏の中からは、遠光・光行親子をはじめ、光行の兄・加賀美長清や、その子・長綱、叔父の安田義定、従兄弟の石和信光、小松有義ら七名が参加しています。
「吾妻鏡」には、光行のことを南部三郎と書かれているので、この頃に正式に遠光から南部郷を与えられたのかもしれません。
鎌倉を出発して約二十日経った八月八日から十日までの三日間、 奥州軍と頼朝軍は激しい戦いを繰り広げます。
いわゆる阿津賀志山の合戦です。
「南部史要」には、
公(光行)先陣に従いて八月陸奥に入る。
諸将と共に激戦数日にして阿津賀志山を陥れ、ついに国衡を倒す。
とあります。
光行は手鋒を用いて、相当の働きをしたようです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~8 - こめいがねんど
へつづく
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