おおはたまちができるまで~南部のはなし~10
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南部氏初代・光行についての第4回です。
南部氏初代・光行/その4
糠部五郡
「南部史要」に
と書かれています。
この糠部五郡というのが、いったいどこの郡を指していたのかはっきりしていません。
江戸時代の歴史書には糠部五郡の中には、岩手郡や津軽郡までが入っていました。
しかし、頼朝は奥州平定戦が終わった時、早速厨川で岩手郡を工藤行光に与えています。
また大河兼任が乱を起こした時には、すでに津軽に地頭として宇佐美実政がいて、兼任軍と戦い討ち死にしています。
そして乱後まもなく北条氏に津軽が与えられ、その地頭代職として、曽我時広が岩楯*1に赴任したと言われています。
またその北部には安東氏がいて、頼朝から旧領を安堵*2されています。
江戸時代の歴史家が、このような糠部五郡説を唱えたのは、室町時代に南部氏が津軽や岩手県の中央部まで勢いをのばしたので、あるいはその頃の勢力範囲をそのまま糠部五郡という言葉で言い表したのかもしれません。
最近では糠部五郡というのは五郡ではなく五部の誤りではないかと言っている人もあります。
「五つの部」といえばちょうど、実光(二代目)が兄弟たちに分け与えたという五つの部(戸)に一致します。
長男・行朝には一戸(一の部)をやり、実光自身は三戸(三の部)、三男の朝清には七戸(七の部)、四男の宗朝には四戸(四の部)、五男の行連には九戸(九の部)を与えています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~11 - こめいがねんど
へつづく
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