源さんが行く76
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政八年の記録3です。
寛政八年(1796年)の記録・その参
■琉球人が入貢(にゅうこう)。
■仙台に唐船が漂着。
■ウルップからエトロフ、クナシリと島伝いにやって来た蝦夷人に託して、ロシアに漂着した仙台藩石巻の廻船若宮丸の乗組員からの手紙が根室の運上屋に届けられた。
しかし、松前の役人が「それは許されない」と判断して、この手紙の受け取りを拒否した。
【津大夫の世界一周記】
宮古の若宮丸がアリューシャン列島に漂着してから二年後の1795年8月、仙台漂流民の一人が故郷へ手紙を書いた。
この手紙はロシア人の基地のあるウルップ島へ、そしてアイヌの手によって蝦夷地(北海道)へと運ばれた。
手紙を運んだのは千島のラッコ猟の権利を得るのを目的とするロシアの一団である。
折しもその津大夫らの到着と前後して、千島に渡ることになっていた人々であった。
アリューシャン列島は乱獲により海獣(トドやラッコ)の数が激減していた。
そこで千島に目をつけ、ウルップ島に開拓団を派遣した。
漂流民たちは、彼らが麦の種や家畜をウルップに運ぶという話を聞きだし、日本への手紙を託したのであろう。
だが、この手紙は、漂流民の身内に渡ることはなかった。
松前で役人によって受け取りを拒否されたのである。
その二年後、この手紙の一件が幕府の耳に入る。
幕府はロシアの来航を予見し、また松前藩が勝手に手紙を処分したことを松前藩の落ち度として、蝦夷地は幕府の直轄地とする材料になった。
自分たちの書いた手紙が国交問題にまで発展するとは、彼らにとって想像もできないことであった。
この手紙を書いた人物はわかっていないが、一行の中でも最も読み書きに優れた太十郎(長崎で自殺した)ではなかったかと想像される。
彼は、病気の船頭に代わって日記をつける人物であった。
船の持ち主である平之丞あてに、自分たちの生存、そして船頭・平兵衛の死去を知らせようとしたのではなかろうか。
享和六年(1806)、手紙が書かれて六年半が過ぎた後、幕府は仙台漂流民の手紙を受け取った。
幕府はロシアの南下が迫っていることを感じた。
そこで、幕府はウルップ島からロシア人を退去させるとともに、アイヌを仲介とした間接交易をやめる旨を申し入れる。
アイヌのウルップ島への出稼ぎも禁じられた。
このようにして日露関係は破綻に向かっていった。
ロシア南下に備えた幕府は、北門防備体制を整備するようになっていった。
【インターネット資料より】
寛政八年の記録はまだまだ続きます。
へつづく
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