こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く75

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

寛政八年の記録2です。

 

寛政八年(1796年)の記録・その弐

村々には山開き、磯止め、草止めなどがあって、その当日は家中のものが他の仕事はせず、山開きには薪を伐採、磯明けにはフノリを摘み取り、野開きには草を刈る。

ところで、その磯明けの日に強風が吹き、異国間で火災が発生した。

そこで、大畑の義倉の稗三石四斗一升を貸し渡した。 

  

下新町の川岸の改修工事を行う。

 

赤川、甲(かぶと、地名)辺りに蝦夷人二人の乗った舟が漂着。仮停泊した。

 

大安寺に二代目の十六羅漢が到来した。

京都の駒野丹下の作である。

中央の塑像の古仏・聖(しょう)観音も、同じく駒野丹下の作で、これは寛政十一年(1799)に将来したものである。

 

ちなみに工匠は、仁賢天皇の時代(五世紀末)に吉使*1日鷹(にちよう)が高麗からやって来たのが始まりである。

敏達(びだつ)天皇六年(577)にも、百済から工匠がやって来ている。

推古天皇七年(598)に鞍作多為名(くらつくりのたすな)の子を宮造りの棟梁として招き、仏像の彫刻を行わせた。

これを楹田(はしらだ)の工匠とも、鳥仏師*2とも称す。

その後、霊亀(れいき)年間(715~17)には春日郷の仏工たちを「春日」と称す。

治安二年(1022)、定朝*3法橋に叙せられた。

それより覚助、頼助、康助、康慶*4運慶湛慶*5と続き、七条大宮流の祖である院覚*6は覚助の弟子である。

また、奈良流の祖である定覚は運慶の弟子、安阿弥(あんあみ)の号で知られる快慶は康慶の弟子である。

いずれも様式が時流に乗って、他派を圧倒した。

陳和卿*7を引き継ぐ仏師たちと言えよう。

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源さんが行く76 - こめいがねんど

へつづく

 

 

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*1:きし=日本に渡来して任に当たった朝鮮人の総称

*2:鞍作止利=くらつくりのとり

*3:じょうちょう=平安期の仏師。興福寺の造仏で法橋から法眼に進んだ。

*4:運慶の父。興福寺南円堂の国宝・不空羅索観音は彼の遺作

*5:たんけい=鎌倉時代の仏師。運慶の長男

*6:木仏師。定朝の孫である院助の子といわれる

*7:ちん・わけい=宋の工人。平安末期に来日。1180年の東大寺焼失後、重慶に招かれて破損した大仏の首の鋳造を行った。東大寺南大門の石像の獅子一対はその遺作