こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く104

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

今回は、前回の松前藩への申し渡しがあった背景を原始謾筆風土年表の資料から日本全史の記事を紹介したいと思います。

 

寛政十一年(1799)の記録・東蝦夷地が幕府直轄地(上知)と決定・其の弐

 幕府は、数度の蝦夷地検分の結果、蝦夷地取締御用掛の拡充を決め、知内(しりうち)川以東の東蝦夷地を七年間幕府の仮直轄領土とすることとした。

1792年のラクスマン根室来航の際、脅威を感じた評定所留守居役の屋代戸右衛門(やしろとうえもん)は、蝦夷地に詳しい本多利明に北方対策の意見を求めたことがあった。

本多は、松前藩に異国境の取り締まりは荷が重すぎるため松前を幕府領とし、直轄の奉行を置いて警備することを説いた。

さらに本多は、異国船来航を機に松前に関する国政改革を行い、二十年先に蝦夷地から生み出されるはずの数百万石の利益を幕府が目を向けるよう進言した。

 

 しかし、この意見はとりあげられず、七年を経たこの年に至って、再び蝦夷地防備の問題が浮上してきた。

その背景には、ラクスマンの来航後、1795年にロシアの植民隊がウルップ島に大挙して上陸、定住して同地方のアイヌが動揺した一件、さらに翌年と翌々年にはプロ―トン指揮のイギリスの探検船がエトモ(室蘭)に入港した事件があった。

 

 幕府は、戸田采女正(うねめのしょう)氏教(うじのり、46歳)をはじめ蝦夷地御用掛を大幅に拡充し、これに対応することを決定。

また、国境取締範囲を千島列島まで広げ、同地域を御用地としてこの先、七年間収公*1すること、アイヌの風俗を改善すること、交易方法は現地役人の差配に任せること、蝦夷地開発に重点を置くことなどを決めた。

 

 こののち、1802年には東蝦夷地が幕府の永久直轄地となり、07年には蝦夷地全体が収公されるが、1821年松前藩に還付された。

【日本全史より】

 

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以上が日本全史による、東蝦夷地が幕府直轄領に決まるまでの背景でした。

冷静に考えても、あんなに大きい北海道全土を松前藩ひと藩で管理しろというのは物理的にみても無理なような気がします。ましてや情報手段が発達していない江戸時代に…。

さて次回は再び源さんの蝦夷地関連の記録に戻ります。

 

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へつづく

 

 

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*1:しゅうこう=没収