源さんが行く77
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政八年の記録4です。
寛政八年(1796年)の記録・その四
九月、高波(津波)。
祭礼の行列に四人持ちの傘鉾(かさぼこ)を先頭に立てていたが、宝暦(1751~64)の頃になって本町から飾り傘鉾が出ることとなり、以来、中止となった。
今年は六人で引く吹き流しが神輿行列に加わり、実に見事であった。
宝国寺の山門を小緘葺(ふき)で仕上げたのは、大工の吉田平次郎。
燈具細工、蜃気楼欄間額(現存する七間欄間の渡り龍)。
今年、蓮如の絵伝軸(現存する蓮如上人四幅絵伝)が富山県の浄元寺から伝えられた。
宋祖の日蓮の絵伝は、宝永(1704~11)の頃に伝わった。
また、半詫迦羅漢*3の画像は安永(1772~81)の末に伝わったもので潜竜実玄の筆になる。
後光に照らされた龍のウロコが雲霧の中に生き生きと描かれている。
【七間欄間の渡り龍】
正教寺七世の義山(ぎざん)は非常に手先の器用な人で、自ら彫刻や箔を置くことができたので、本堂の仏間をこしらえ、現在でも参詣の人を驚嘆させる七間欄間(しちけんらんま)図案を設計した。
欄間から欄間へ二匹の大龍が渡る豪壮なもので、寛政五年(1793)、京都の福井弥右衛門の製作である。
【蓮如上人(しょうにん)四幅絵伝】
七世・義山は、後継者の義堂を佐井の法性寺(ほっしょうじ)より迎え、布教に力を注ぐ。
寛政三年(1791)、布教のため必要であったこの絵伝を富山の浄元寺の宝物で、寺の伝記にも添えられてある由緒あるものだったが、譲り受け寺宝とした。
これを布教のたびに持ち歩き、絵解き説教にも使った。
そのため傷みが激しく、文政九年(1826)、画師の慈眼(じげん)によって修復された。
【大畑町史】より
へつづく
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