こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く89

 

f:id:komeikanendo:20200403222125j:plain
どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

寛政九年(後半)の記録2です。

 

寛政九年(1797)後半の記録・其の弐

秋田の角館本明寺から人が来て正教寺の橘流庭園づくりを行った。

 

享保の頃(1716~36)、大川善兵衛の家が揺れ、ミシミシ何かが倒れる音がした。

倒れたのは、谷地稲荷の松の木だった。

ところがなんと十日ほどたって大風が吹いた日、倒れかかっていた松の木が元のように起き上がった。

経書に「頚草*1は倒れず」の言葉がある。

この松をもう一度植え直したが、根づかなかった。

神亀四年(727)五月二十日、南苑でも二本の木が風で倒れたと聞く。

 

幕府大目付の朝夷名(あさいな)治郎左衛門津軽から北海道に渡った。

隠居した前松前藩主・大炊介(おおいのすけ)の病気見舞容態監視が目的らしい。

 

 ★幕府は、前藩主の病気を理由にした隠居問題について疑いを持っていた。

 

■盛岡で洪水が発生した。

 

湊の沖の漁で水虎(かっぱ)がかかった。

しかし、見慣れぬ異様なその姿に驚き、そのまま放してやったそうだ。

f:id:komeikanendo:20200404230856j:plain

 

江戸料理と称し、大根の刻み方が伝授された。

まるで草や石や蚕のように次々と形が作られた。

庖丁始め*2は、延暦元年(782)、山陰中納言によって行われた。

 

大坂から来た老婆が生田流筝曲の演奏をした。

安村流という新曲も披露し、また漢の成帝が寵愛した趙飛燕*3の清平*4な調べも奏でた。

 

 

源さんが行く90 - こめいがねんど

へつづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

第三集の最初から読みたい方は

源さんが行く39 - こめいがねんど

 

第四集の最初から読みたい方は

源さんが行く57 - こめいがねんど

 

第五集の最初から読みたい方は

源さんが行く72 - こめいがねんど

 

*1:けいそう=風に強い草

*2:新年に、初めて庖丁を使う儀式

*3:ちょうひえん=成帝の皇后。舞が上手く軽やかで燕に似ているとされた。絶世の美女

*4:せいへい=清く穏やか