源さんが行く53
下北半島食べる通信「大畑の海峡サーモン」(2016夏 バックナンバー)【電子書籍】[ 下北半島食べる通信編集部 ] 価格:500円 |
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政四年の記録・ラクスマンの来航編、大黒屋光太夫たちはやっと帰国の願いが叶います。
寛政四年(1792年)の記録・ラクスマンの来航その参
十七人のうち十二人が死去し、残った五人は、寛政三年(1791)十一月、ペテルスブルクを出発。
翌年一月三日にイルクーツクに戻った。
ここで正蔵が足の病気のため、新蔵と共にこの地に留まることになった。
残りの三人が五月二十日、船に乗り、川を下りヤクーツクに到着。
七月二日にまたそこを発ち、山越え千十三里、
八月三日に北緯五十二度のオホーツクに至った。
そして九月十三日、オホーツクの船で海上千九百八十里経て、
ところで、ロシア船に乗ってやってきた使節役人の名はアダム・ラクスマン。
大船頭のことはトコロコフ、名をコフシャフという。
水先案内の名はシャバリム。
総勢四十七人で大黒屋光太夫と小市と北浜磯吉の三人を送ってきたのである。
小市は、残念ながら根室で死亡した。
二人の漂流民を江戸幕府に送り届けてほしい旨の書簡を松前候に上申している。
江戸幕府からは御徒目付(おかちめつけ)の村田兵左衛門、御普請役の田辺安蔵、御小人目付の草田川伝治郎が早々にかけつけ、ロシア人の宿舎を訪れ、長旅の労をねぎらった。
通訳として、四十八年前のあの佐井の多賀丸の漂流者である勝右衛門のせがれのトラベズニコフが来ていた。
このことを知って幕府の用人たちも無視できず、面談を求めて、その宿舎も訪ねた。
以上がラクスマン来航の源さんによる記録でした。
要は日本の船乗りが漂流して、ロシアまで行って、帰ってくるまでの冒険記録ですね。
そのころのロシアという国がどんなだったかわかって面白かったです。
次回はこの冒険記録を原始謾筆風土年表・資料から別の角度で紹介したいと思います。
へつづく
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