よもぎたむらができるまで40
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
ついに、奥州藤原は源頼朝が率いる幕府軍との全面戦争に引きずり込まれてしまいます。
奥州藤原氏・其の十四
頼朝軍と平泉軍が対峙したのは阿津賀志山*1でした。
その防塁は、十万・二十万の兵でも防げそうな壮大な規模でした。
五㍍ほどの高さの土塁を、万里の長城のように連ねて、敵が進撃してくる正面をすべて塞いでいます。
十万の頼朝軍が来た時は、泰衡と異母兄の国衡が守っていました。
本来でしたら、そこで何日も凌げたと思います。
しかし泰衡は一日でいなくなってしまい、国衡は防塁の内側に立て籠っていればいいものを、わざわざ防塁から出て戦って死んでしまいます。
何故、泰衡があそこで腰抜けになってしまったのか?
一番の問題は、頼朝が朝廷の命を受けている点でした。
安倍貞任(よもぎたむらができるまで20参照)たちが抱えた問題と同じで、頼朝を打ち負かすことは、朝廷に反逆することになるわけです。
そうなれば、源氏と朝廷、つまりは日本国中を相手に、とてつもなく長い戦が始まってしまいます。
平泉がどんなに頑張っても、都にまで攻め上がっていく軍事力はありません。
坂東の源氏の勢力圏を通過しながら、次々と立ち向かってくる相手を破りながら進むのは不可能です。
長い目で見ると、この戦はできないという判断でした。
戦わずして負けたのは、弱腰だったからではありません。
入り込んできた二十数万の敵兵と戦えば、平泉や奥六郡が灰になってしまうのを恐れたからです。
それよりは、自分たちが立ち去ることで、国と民を守ろうという判断をしたのでした。
泰衡は決して臆病だったわけではありません。
泰衡の中には清衡の血が脈々と流れていて、ここは自分たち支配者だけの国ではない、という思いがありました。
自分さえいなくなれば、この国土が無傷で残ると信じたから、戦を放棄したのでした。
阿津賀志山の戦いの後、泰衡は退却を続けます。
「吾妻鏡」には、泰衡が平泉を立ち去る際、火を放つよう命じたため、頼朝が入った時は焼け野原になっていたと書かれています。
でも中尊寺は残っていました。
泰衡が焼いたのは、平泉の組織や金山の場所などを記した書類を収めた役所だけでした。
平泉の象徴たる金色堂が残って、その輝きが消えない限り、いつかまたエミシの手で新しい町がつくられると泰衡は信じていたのでした。
(参考引用文献/高橋克彦「東北・蝦夷の魂」「炎立つ 光彩楽土」)
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
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