源さんが行く43
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政二年後半、源さんの洞窟豆知識クライマックスです。
寛政二年(1790年)後期の記録・その伍
出羽の国(秋田県)男鹿の藁雀(源さんはワラチとルビ)*1は、八月の大潮がこの洞窟に及ぶ頃、乗って行った船をつないだまま、小舟に乗り換えて二㌔ほど奥に行くと、潮の緩やかな浅瀬に至り、小舟から降りて砂浜に行くと、はるか向こうまで陸続きであり、山々の連なる風景が見えてくるという。
木々が生い茂り、人家らしいものが見え、別世界を訪れたような気持になるらしい。
武陵*2の桃源郷、天台山の仙人の地もこんなものかと思われる。
仙人に会いたいと思うものの、この先どれほど進めばよいか、洞窟の入口に繋ぎ残してきた船のことも気にかかり帰り道がわからなくなっても困るので、そこから戻り帰った。
こんなことを「東遊記」に書き残しているのは京都の離騒*3・橘南谿(たちばな・なんけい、1753~1805)という医者である。
暖かい地方の梅の木は葉が落ちないうちに花が咲き(=葉が先に出る)、寒い地方の梅は花が落ちないうちに葉が開く(=花が先で葉が後)。
地勢によって草花や石の類にも差があるのだろう。
橘南谿は、風土病や人の気質、礼儀習慣などを知ろうと、天明五年(1785)まで日本中をあまねく見てまわり、「東遊記」「西遊記」と題した著書を出版している。
それらの書の中に不思議な洞窟の話なども書かれている。
あの桃源郷かと見えた場所は秋田・男鹿半島のどこの辺りなのだろう。
我々の住むこの辺りにも難事が窟(いわや)*4というコウモリの棲む、けっこう奥行きのある洞窟があるらしい。
以上が源さん寛政二年の記録になります。
最初は修行僧の話から始まって、洞窟の豆知識(橘南谿の話が元?)にまで話が広がりました。
何度も言っていますが、源さんのいろんな角度から記録されている内容には、スゴイとしか言いようがありません。
だから、記事を紹介していても飽きません。
これからもいろんな話がでてきます。
ということで次回からは寛政三年の記録に入ってまいります。
へつづく
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