源さんが行く44
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政三年の記録に入ります。
源さんは四十四歳になり、宿老の仕事に励んでおります。
寛政三年(1791年)の記録・その壱
江戸の豊竹喜美太夫が来る
■光格天皇の地方御巡幸が行われた。
警護の侍、三種の神器、天皇の乗り物、お供の者、京都所司代が、真夜中の真っ暗闇の中を進んだらしい。
このころ、湯浅嘉兵衛、黄金小七郎がその行列を排したという。
この二人は天明六年(1786年)に大坂の奈良本久右兵衛が大畑に店を開き、その店の支配人をしていたが、十年後の寛政八年には店を移してしまった。
下風呂に九尺(2・7㍍)もある大きなイカが上がる。
東本願寺の化粧梁(はり)は、長さ十七㍍弱、七間から八間の部屋にとりつける。
各一本の幅一・五㍍弱、厚さ八十二㌢。柱の長さは十五㍍ぐらいで十六角、矩*2は一・二㍍。隅木*3の長さは十五㍍弱、幅九十㌢あまりで上面を削らない玉取りである。破風(はふ)用の材木は四枚、長さ二十㍍強、上幅一・五㍍強、元口*4を下にして厚さ二十㌢弱、さや八十㌢強のケヤキ材を全部で七百本。一寸四方十四尺の棒材の値段は銀三匁、これらの代金総額三万両である。
秋田県本庄戸沢のケヤキ山から伐り出し、千両を先払いとし、残金は大坂での仕切り正銀*5一割収納、山方(杣夫)入料については「領主は関わらざる」の中考*6である。
安永七年(1778年)には、長さ十五㍍弱、幅四尺のケヤキ一本の値段が八百両だった。
文化六年(1809年)にも幅八尺のケヤキを大坂に送っている。
西本願寺は寛政十年(1799年)に六十七㍍に五十㍍の大建造物を築いている。
また、もっと昔、石山本願寺*7は、 明応五年(1456年)に蓮如が築いた寺である。弘治二年(1556年)に二品(二位)親王の号を、永禄二年(1559年)には准門跡に、永禄三年には十箇寺院家の御許しを天皇から得ている。
これは、大永元年(1521年)三月二十二日と天文五年(1536年)二月二十六日の二回、大嘗会*8の費用を肩代わりしたことによる。
戦国の英雄が多数存在する中で大内家以外には調達不可能な費用である。
大内義興(よしおき)は明(みん)との勘合(かんごう)貿易で莫大な財を成し、外国の使者による朝廷への貢ぎ物も多かったことから、その恩賞だった。
そもそもの御門跡(ごもんぜき)というのは、延喜元年(701年)、宇多法皇が仁和寺(にんなじ)に御室*9をお造りになったことから始まる。
へつづく
最初から読み直したい方は
第二集の最初から読みたい方は
第三集の最初から読みたい方は